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忘備録的に

ええと、いまの構想を自分用にまとめてみる。本のタイトルは「記号の中の幽霊-レトリック3.0の構想-(仮)」である。とりあえず、レトリックとはことばの工夫を扱うガクモンくらいに考えておこう。これまでのレトリック研究に対して色々不満があるので、どうしたらいいか、その構想を述べるのが本書の目的である。ブンガクなのかテツガクなのかよく分からないが、人間の、ある種の認知メカニズムの解明、みたいなところを暫定的に研究の目的にしておこうと思う。何のことか。
レトリックなのでことばについて研究する訳だが、どう研究するのかが問題だ。ことばのはたらきについて分析するのをレトリック1.0と呼ぼう。ふつうにレトリックと言えばこれになると思うのだが、これはことばのはたらきかける相手(聞き手・読み手)に対して何らかの同一視を必要とする。そのせいで色々な不都合が起こるのが私は不満である。
では、ことばのかたちについて分析するのはどうか。これをレトリック2.0と呼ぼう。ことばの受け取り手がどう思うか気にしないでよいので、レトリック1.0よりも客観的な分類ができるという点では優れている。しかし、この分類が何の役に立つのか。何のための分類か、ということには答えられない(答えてはいけない。答えればそれはレトリック1.0に過ぎない)。そこが私は不満である。よくよく考えると、本当に客観分類かどうかも怪しい。かたちの捉え方に主観が入り込むのである。レトリック1.0との対比で言えば、話し手・書き手に対して何らかの同一視をする必要がある、と言うことができる。
これらの葛藤はレトリック研究に固有の問題ではなく、背後に大きな問題があって、この局面ではこのような現れ方をしているということに過ぎないのではないか。そこで、いちど話を大きくしてみようと思う。内部の問題としては「規則とは何か」、外部の問題としては「価値とは何か」を考える。テツガクである。これがある程度の水準で解決すれば、レトリック3.0のあるべき姿が見えてくるのではないか。
よくよく考えると、一義性と多義性の相克ということが根っこにあるような気がしてくる。それでは、多義性そのものを主題化して考えてはどうだろうか。ルビンの壺のような多義図形。ああいうのを総括してアスペクトと呼ぶのだが、アスペクト研究の記号版がレトリックであるという定式化はどうであろうか。また、テツガクの議論を進める上で、両主題に共通して問題になるのは「主体とは何か」である。主体は対象の性質とは考えにくい。しかし、主体など存在しないと言ったらば語弊がある(社会的責任など誰も問えなくなってしまう)。その辺りを解決するためのキーワードが擬人法であり、幽霊、ということになる筈なのだが、この話は、まだ充分煮詰まっていない。と、まあ、そんなこんなでレトリック3.0の構想を練っているわけである。
本来周縁的であった駄洒落を議論の中心に据える。これはなぜか。断じて伊達や酔狂ではない。レトリックと言えば比喩だというくらい、比喩についてはみんな考えている。しかし、比喩は意味論が関係するせいで余計な難しさがあり、客観性云々というデリケートな話題には向かないのである。このため、比喩などと同じ形式を持っていながら、より単純である駄洒落を考えることで、エッセンシャルに、レトリック研究が解決すべき課題をあぶりだせるのではないか。と、そういうことなのであった。

すこしごまかしはあるが、今のところこの程度の構想である。落語やドラえもんのような古典的な筋立ての話は、比較的分析しやすいのではないかと思っている。ブンガクの授受に関しては、自由な創作、自由な鑑賞、自由な分析をするための基盤づくりみたいなところに着地できないかと思う。それから、部分的には人工知能研究みたいなものとも親和性が高い議論になるのではないか。たとえば、アスペクト知覚が可能なロボットはどうやったら作れるのであろうか。あるいは、文科の基礎論として考えても……などと、誇大妄想的な夢は広がるのであった。具体的な話は改めて書きたい。

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