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言語にとって主体とは何か

主体や自由意志と、決定論的世界観(宇宙の初めから終わりまで物理法則が決定しているという世界観)は食い合わせである。両立が難しい。しかし、できれば、自然学が主体とは何かをきちんと理解できた方がよい。

ところで、なぜ私は主体にこだわっているのだろうか。それが今回の議論の主題である。

言語にとって主体とは何か。言葉があるとすれば、それを喋った人か、あるいは書いた人かがいるはずである。つまり、言葉の存在は、発話や筆記の主体を要請する。

文字を映し出す機械・音声を発する機械について考えてみよう。電光掲示板の映し出す文字、ラジカセの発する音声から、読む側・聞く側(受信者側)はメッセージを読み取る訳だが、この場合、電光掲示板やラジカセは、ただの媒介(メディア)である。受信者は、電光掲示板の向こう、ラジカセの向こうにいるはずの発信者を信頼しているのであって、電光掲示板そのもの、ラジカセそのものを主体だと誤解しているわけではない。少し複雑なものとしてカーナビを考えてみる。カーナビは目的地までの音声案内全体が予め個別に企画されている訳ではない。けれども、それを言葉として理解し、受け止めてよいのは、カーナビ設計者への信頼が背景にあるからであろう。その意味では、カーナビもメディアの一変形にすぎない。

次に、人間の発話について考えてみよう。物体から音声が出る点は、ラジカセと一緒である。ところが、たとえば佐藤さんが「悲しかった」と言えば、それは佐藤さんが悲しかったのであって、佐藤さんの向こうにいる何者かが悲しかった訳ではない。佐藤さんはメディアではなくて、主体なのだと見なされなければならない。さもないと、佐藤さんが腹を立てても文句は言えないであろう。

最後に、主体が発信しなかったものが言葉になり得るかどうか考えてみよう。たとえば、神々の声をきく巫女。星々の瞬き・風の歌・樹皮の皺から精霊のメッセージを読み取ろうとする老人。暗号解読せよと軍から強制された出鱈目な数字列を、必死で読み解こうとする数学者。雑踏で聞いた空耳に絶望し、自殺してしまう少年。……極端な話ばかりのようだが、どうもこれらのケースでは聞く側・読む側(受信者側)に問題があるように感じられる。これらの受信者が何か(架空の発信者の)代弁をするとして、おそらく全幅の信頼を置く訳にはいかない。ここにおける発話や筆記の主体は、おそらく彼ら自身と見なされなければならないであろう。仮に彼らが自らをメディアにすぎないと主張し、我々の解釈を承服しないであろうとしても。

そういう訳で、やはり言葉には(発話や筆記の)主体が必要であるらしい。人文学の基盤を失ってよいなら、主体など放棄しても構わないのだが、そういう訳にもいくまい。これが私の主体にこだわる理由である。

************

蛇足になるが、じつは主体か否かは対象の性質ではない。記述の問題である。自然学は対象の性質を明らかにするものであろうから、直接に主体の解明をする訳には行かないであろう。では、何を解明すべきなのか。それは、生物学・医学がこれまでやってきたことの延長。人間がどんな機械なのか、ということに尽きると思う。
18:

こんにちは
お久しぶりです。
「主体や自由意志と、決定論的世界観は食い合わせである」ということに興味があります。この記事ではあまり具体的に記述なさっていないのですが、多分私も同じ事を感じていると思います。

2013.04.10 18:26 clg2009 #4XYY65S2 URL[EDIT]
19:Re: タイトルなし

こんばんは、ご無沙汰しております。コメントありがとうございます。

決定論と自由意志の問題。私もまったくの門外漢なのですが、哲学系の本にはよく記述があります。齟齬自体は明かですが、とくに倫理との関係において自由意志の問題が先鋭化します。

講談社現代新書『現代哲学辞典』の「意志」の項、末木剛博という方の記事が非常に鋭利で、印象に残っています。最後は心身一如の京都学派的なオチになるのですが。
http://www.amazon.co.jp/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%93%B2%E5%AD%A6%E4%BA%8B%E5%85%B8-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-225-%E5%B1%B1%E5%B4%8E-%E6%AD%A3%E4%B8%80/dp/406115625X

自由については、柄谷行人『倫理21』が思考の基礎になっています。よく「自由には責任が伴う」と言いますが、これは話が逆なのであって「責任を問うには自由な判断が可能であったのでなければならない」訳ですね。カントを引きながら、そんな話が書いてあったように記憶しています。
http://www.amazon.co.jp/%E5%80%AB%E7%90%8621-%E5%B9%B3%E5%87%A1%E7%A4%BE%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E6%9F%84%E8%B0%B7-%E8%A1%8C%E4%BA%BA/dp/4582764711/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1365591928&sr=1-1&keywords=%E5%80%AB%E7%90%8621

倫理との関連は薄いですが、wikipediaの「自由意志」の項も、決定論との齟齬について、よくまとめてあると思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%84%8F%E5%BF%97

************

私が本を書きたい動機のひとつは「自然学が決定論を支持、人文学が自由意志を支持していて、話が噛み合わないように見えるけれど、何か和解の道はないだろうか」ということにあります。自然学は「自由意志なんてフィクションだよ」と主張する方向に進んでいると思うのですが、私は「自由意志にも一理ある」と、自然学の人が納得するような言い方で言いたいのですね。それには、デカルトみたいな水準(松果体で精神と肉体が結びついて云々……みたいな水準)で議論していても仕方がない。

人間性の回復・人間の尊厳の回復を目指す点において、私は人文学を擁護したいのですが、オカルトへの傾斜(超自然的な何かを仮定すること)は厳に慎まなければならないと考えています。

2013.04.10 20:34 みずすまし #- URL[EDIT]
20:

※19:みずすましさん
まず一つ。私は哲学的議論に全く興味がありませんでした。
それで、おっしゃるところの自由意志と決定論のせめぎ合いは、今まで全く知りません。多分、そう言う事を誰かに教えられても興味は持たなかったと思います。
でも今、記憶科学という枠で考える様になって、もしかしたらそういう「哲学者」達の直感を全て解明出来るのかもしれないのかと思う様になっています。
哲学をする気は毛頭なかったのですが、今では哲学と科学とを結びつける働きをするのではないかと思う様になりました。
これからも私のとりとめのない思索におつきあいいただければ幸いです。

2013.04.11 10:16 clg2009 #- URL[EDIT]
23:承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

2016.10.02 14:43 # [EDIT]

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