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文法の自然化とレトリックの自然化

構想。焦点をどこに結ぶか。

チョムスキーの生成文法は、文法を自然化したのかもしれない。ここで自然化というのは物理への還元、くらいの意味だ。べつにチョムスキーのおかげでコンピューターができた訳ではないけれど、記号処理とか、情報とかは、既に物理的なハードであるところの、コンピューターに乗っている。文法現象については、こんな古典的なコンピューターモデルで、ある程度の記述ができた。つまり大雑把に言えば自然化できたのである。逆に言えば、文法なんてのは、その程度の現象なのだと考えることもできる。

分からないのは、意識だの、認知だのという現象は、コンピューターをどうひっくり返しても出てきそうにないところだ。チョムスキーについて詳しくないのだが、もちろん問題意識が違うなら、べつにそんなの説明する責任はチョムスキーにはない。

レイコフ以降の認知言語学は、比喩の理解など言語の認知的側面について、さまざまなメンタルモデルを提出した。しかし、これが、何らかの、物理的なハードウェアの上で、うまく実現されたという話は、寡聞にして知らない。たぶん、こちらは自然化するためにモデルを考えていたのではなくて、また何か違った問題意識に基づいての研究だったのだろう。

私はレトリックの認知を自然化したい。それにはおそらく単なるチューリングマシンでは不足で、ひとひねり加わった別の物理モデルが必要になる。それが出来たなら、言語も人間も、今までとは、まったく違ったふうに見えるだろう。

なぜレトリックなのか。先見性を私ごときが称えたところでレイコフが喜ぶとは思えないが、レトリックは、文法やコンピューターモデルによる説明の網目が取り逃がした魚である。魚が大きいか小さいか。別の網で捕まえてみないことには、分かるまい。それが私の言わんとする、レトリックの自然化である。

別の項目で書いたことのくり返しになるが、レトリックは私の考えでは記号に対するアスペクト転換である。そして、コネクショニズムについて考察してみると、アスペクト転換はチューリングマシンに乗らないのではないかという気がしてくる。私にはこれがレトリックの可能性の中心である。

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2010.02.27 10:36 # [EDIT]
17:

ひとひねりした物理モデル、いい着眼点と思います。でもそうなると物理の枠をはみ出ることは必至ではないでしょうか。そうなると何モデルになるのか。私も興味津々です。

2010.03.24 03:52 CLG2009 #- URL[EDIT]

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