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哲学とたとえば文学のつながり

フレーゲ言語哲学。ソシュール構造言語学。チョムスキー生成文法。レイコフ認知言語学。これらを乗り越えること。たとえば、これら従来理論に対して信号言語と計算言語というくくり方をしてみた。これはどんな前提への批判なのだろうか。そしてこの批判はどこに根を持つものなのだろうか。

ひとつは誰もいない映画館の不思議。どうして宇宙は誰もいない映画館ではないのだろう。これは要するに、主体概念の謎である。私の見立てでは言語こそがその鍵なのだが、今のところどの路線に乗っても謎は解けそうにない。これは前提が悪いのであろう、というのが、まず根本にある。
もうひとつは、各言語理論が、たとえば文学現象の記述に向いていないように思われるところだ。言葉は文学の素材なのに誰もそんなことを言わない(少なくとも周縁領域でしかない)のが不思議だ。言語理論の対象と文学の言葉は別物なのだろうか。この路線でいちばん方向性の近いのは、レイコフの認知言語学かもしれない。

各言語理論はそれぞれに特有の人間観、たぶんある種理想化された人間観とセットになっている。フレーゲなら論理的、計算的な人間。ソシュールならラングを担う母体としての通信局的な人間(というと語弊がありそうな気もするが)。チョムスキーなら普遍文法を搭載した、非タブラ=ラサな人間。レイコフのは、まだ不勉強でいまいちうまく焦点を結べていないが、まあ、いろいろと認知機能に仮定の入った人間であることは確かだ。
なぜこのような理想化が行われるのか。理想化しないで、いろいろあるねでは、理屈にならないからである。

いちばんうまく行ったときのことを考える。巨人達の大伽藍といえど、いくつかの前提からスタートしている。批判は土台に加えれば充分だ。しかし、枯れ木と共に果実を捨てていいものかどうか。たとえば皮をむいていくと玉ねぎはなくなってしまう。あとは涙がでるばかり、では困る。

転換への還元。たとえば、フレーゲの計算を、ソシュールの構造を、チョムスキーの文法を転換で説明し直す。さらに私に固有かもしれない疑問をも転換の見地から説明してみる。それでこそ、花も実もある新しい理論といえよう。しかし、さて、はたして、そんなにうまく行くのか。

ところで、文学って結局、この文脈において何なのか。一見均衡を欠いた取り合わせのように思える。だが、本質は文学の中に全部入っている。創作・鑑賞・分析。

伝統的な批評はあまりに高尚なもの深遠なものを求めたために科学から乖離した。私が文学作品の分析を通じて取り出したいのは、もっとチープな、どこにでもある、しかしそれなしでは、ほとんど文学が不可能であるような現象=転換なのである。

ここでコンピュータに文学が分かるか、と文句を言ってみてもいい。文学は猿にもコンピュータにも分からない。これが人間の特殊性でなくて何であろうか。なんてことを言えば、それは法律でも政治でも経済でも芸術でも科学でも、何でも同じことではないかと反批判されそうな気もする。まったくその通りであろう。たぶん、これら人文現象はすべて、人間の動物としての特殊性に端を発している。高尚や深遠を期待する人の意に添うわけにはいかないが、ここで私が文学を対象として扱うのは、例として扱いやすいからに過ぎない。



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