FC2ブログ

民話分析とユング

初期の構想では、本の分量の半分は、文学系の話題に費やす予定だった。伝統的なテクスト分析とは、少し毛色の違った文学作品なりの分析ができないかと思っていたのである。アスペクト転換と見える箇所をテクストから拾い上げて分析するようなものを思い描いていたのだが(このこと自体は凡庸なアイデアだ)、それと価値、たとえば文学的な価値を短絡させると、いろいろな弊害が起こってくる。この問題の回避が当初私にとって、大きなテーマになっていた。

いま本の構成上、問題になっている部分は少し違っている。最近、非チューリング性とか、主体概念といった、人間の特殊性(と私が勝手に考えているもの)についての話を追いかけている。これはこれで話が中途半端なのだが、たとえそれが完成したとしても、それと文学とに何の関係があるのかよく分からない。つまり、両者の接続が難しくなってきているのである。

どうしたものかと思うが、そこはのんきもののこと。たぶん適当なところでこのふたつの話は繋がってくると楽観しているし、たとえ繋がらなかったとしても構想全体が雲散霧消する訳ではあるまい。まあ、なるようになるであろうと高を括って、あれやこれや考えているような所である。

閑話休題。民話分析とユングである。民話分析といえば、条件反射的にプロップの名前を思い出していた。プロップの分析をアスペクト転換に還元する、あるいは同じことだがプロップの31の類型を、徹底的に相対化するような話を薄ぼんやりと考えていた。駄洒落から比喩へ、比喩から寓喩へ、みたいな連想が働いたのである。今日ふとユングのことを思い出したのは偶然なのだが、ユングはユングでお話の分析が仕事だった。フロイトよりも魔術的な香りのする精神分析である。

私は超自然的なもの、オカルト的なものを、理屈の上、少なくとも本を書く上では極力退けておきたいと思っている。直接ユングの路線に乗るわけにはいかない。しかし、もしかするとユングを、ユング自身思っていなかったような方向で再評価できることがあるかもしれない。ストーリーの分析において、フロイトになくユングにあるような、方法乃至はその萌芽を探すこと。話は飛ぶが、フロイトとダーウィンはおそらく親和的で、それに対する不満が私にはあるのであった。

思いつきにとどまるかもしれないが、下手な鉄砲は数撃つより仕方ない。とりあえずメモとして残しておこう。


管理者にだけ表示を許可する