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話はどうなっているか

いまの課題は、言語とレトリックを繋ぐことにある。まず、言語の方の話を整理する。

人間とは何ぞや。という問いがある。これに対し、人間はコンピュータだというのは過小評価だが、人間は機械ではないというのは過大評価であろう。つまり、人間も物理法則に従う。では、どんな機械なのか。アスペクト知覚をする機械だと仮定してみる。それでは動物と区別がつかなくなる。動物もアスペクト知覚くらいできるであろう。そこで言語が登場する。人間は行為の記述を記号の形で持つ動物である。これはおそらくは、倫理的な人間像と言ってよい。

そこで、言語観が問題になる。いま主流の言語観に従えば、人間がコンピュータになってしまう。そうでない証拠はたくさんあるのだが、有力な対抗馬がないために主流の言語観は崩れない。ここへ、アスペクト研究の記号部門としてのレトリックをぶつけたいのだ。言語VSレトリックと言えばレイコフ以降の認知言語学である。主流の言語観をゆるがせた功績は大きいが、これは言語の多義性のうちのひとつを特権化してみせたにすぎない。いわく身体性が根源である。

レトリック的な認知過程が言語において本質的である。そういう主張をする人は少なからず存在する。だが、レトリック的ということの意味が、おそらくはその人と私とで異なっている。そうなると立証過程もかわってくるはずだ。どんな順序で何を説明すれば、本になるだろうか。私の考えでは、修辞学の出自を問い直すことが必要なのだが、いまのところ、その話をどこでどう展開すればよいか、どこに入れ込めばよいか、構成が見えていない。その構成を考えること。これが、言語とレトリックを繋ぐ、ということの意味である。

言いたいこと、やりたいことは単純なのだ。あるいは、やっとここまでシェイプアップできたと言ってもいい。人間を過小評価から救いたい。オカルトの手を借りずに。



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