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駄洒落の構造

そもそもこの話がどこから始まったのか。2001年に自分のサイトで書いたのが、以下の文章であった。今では立場が変化している部分もあるけれど、参考までこのブログに掲載しておきたい。


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http://ww4.tiki.ne.jp/~j344/nosiika/frame.html


駄洒落の構造



前口上
 このページの主題は駄洒落について突き詰めて考えることである。
 特に参考にした文献はない。その道では常識的な話題や、あるいは見当違いの考察なども、知らず得意に展開してしまうかもしれない。先にお詫びする。




駄洒落の不確定性
 駄洒落と一と口に言っても、その語の指示する範囲はまちまちである。仮に、駄洒落か否かを判定する単位をフレーズと呼ぶことにしよう。ある人にとっては駄洒落であるフレーズが、別のある人には駄洒落でない場合がある。「私がここで駄洒落と呼ぶもの」を定義しなければならない。
 例から入ろう。大学の「総合科学部」のことを友人達のあいだでは「総科(そうか)」と呼ぶ慣わしがあった。学部生の頃、次のような会話がしばしばあった。
「次(の授業)どこ?」
「総科」
「そうか」
 この最後の「そうか」が駄洒落かどうかは人格に関わる大問題であった。

 これは心霊写真の扱われ方に似ている。写真に幽霊が写っていても、誰も気付かなければ、それが心霊写真と呼ばれることはない。また、幽霊が写っているのでなくても、木の影が人の顔に見えたりすると心霊写真扱いされることがある。
 友人は「『総科』を『そうか』で受けるなんてのは駄洒落である」と前提して、「私が駄洒落のつもりでそれを言った」という結論へと持ち込もうとしたのだが、結論の真偽はともかくこの推論は間違いである。




笑いを括弧に入れてみる
 私は駄洒落を「笑いを目的とした表現」として捉えない。駄洒落にはもっと大きな可能性がある。また「笑いを目的とした表現」の世界では常套的に形式を裏切るため、その枠組みでは定義しづらいという理由もある。
 しかし笑いという視点なしに、駄洒落を語ることは可能か、そもそも「つまらない洒落」というのが「駄洒落」の語義ではないのか。本来を言えば駄洒落とは、他人の口にした、つまらない洒落を「それはね、駄洒落だよ」と評価する場合や、自分が口にした洒落を「今のは駄洒落だったな」と自己採点する場合などに使われていた言葉のはずである。
 いま私が駄洒落と呼んでいる、それの輪郭をハッキリさせるには「地口」と呼んだほうがいいのかもしれない。が、どのみち、同じ問題は残る。地口とは何か? 同じことなら、私は駄洒落を通したい。駄洒落は明らかに、洒落の中の特定技法をも指す。
 その事情については、おそらく、こういうことではないだろうか。すなわち、技法として低級と見られているものが洒落の中に存在していた。そして、「その技法の洒落はつまらない」が、いつのまにか転倒して、「駄洒落とはその技法の洒落である」という誤解が生まれ、広まったのである。元が誤解であるにせよ、言葉には市民権があればいい。私がその本質を考えたいのも、この誤解の方の駄洒落だ。以降、駄洒落といえば一律に、それを指すものとする。なお本稿では洒落とは何かを論じない。




駄洒落の定義
 「駄洒落の不確定性」に登場した友人の、件の推論は認めないが、そこで友人が前提したことは評価してよい。「『総科』を『そうか』で受けるなんてのは駄洒落である」に私は賛成だ。つまりフレーズの形式から駄洒落の定義をしたいのである。
 漫画家の鳥山明が有名にした有名な駄洒落に「蒲団が吹っ飛んだ」がある。うろ覚えだが、これは同じく漫画家の桂正和に教わったものであったらしい。問うべきは何のためにこれが駄洒落として成立しているかである。それは「蒲団」と「吹っ飛ん」との音の類似ではないだろうか。
 幽霊によって駄洒落を定義するのではないから、いまは駄洒落を考案するという思考の過程は無視しよう。一般化のため、「蒲団」を変形すると「吹っ飛ん」になる、という関係に注目したい。オリジナルとコピーという見方をするわけである。コピーといっても、元と完全に同じではダメで、ある変形が成されなければならない。その際、音の変形といった形式的な変形だけを許し、内容に基づいた変形は認めないものとする。そこで定義。

 駄洒落とは、オリジナルとコピーとの組み合わせである。

 さて、「当たり前田のクラッカー」は駄洒落だろうか。次の駄洒落の分類で、詳しく考えてみたい。




駄洒落の分類
 結論から言えば「当たり前田のクラッカー」は駄洒落である。しかし「蒲団が吹っ飛んだ」式の駄洒落とは様子が違う。私の解釈では、オリジナルがフレーズから消滅しているのである。この点で、駄洒落を分類してみよう。再び定義。

 オリジナルがフレーズ内にある駄洒落を自己完結型の駄洒落と呼び、オリジナルがフレーズ内には存在しない駄洒落をパロディと呼ぶ。

 フレーズ内にコピーが存在しない駄洒落はありえないので、これでよい。
 上の定義から、「アルミ缶の上にある、みかん」というフレーズを考えると、「アルミ缶」がオリジナルであり、「ある、みかん」がそのコピーと解釈でき、これは自己完結型の駄洒落になる。
 「その手は桑名の焼きはまぐり」というフレーズでは「その手は食わない」という常套句の「食わな」がオリジナルであり、「桑名」がそのコピーと解釈でき、パロディに分類される。問題は「焼きはまぐり」であるが、立場上、これは、フレーズを聞く側の人が「桑名」を地名であると特定するために添えられた言葉である、と解釈する。
 「その手は桑名の焼きはまぐり」についてもう少し書く。パロディとして成立しさえすればよいのなら「その手は桑名い」で構わない。面白いかどうかは、駄洒落に関して問題ではないのである。「笑いを括弧に入れてみる」で私が駄洒落を「技法」と呼んだのは、つまりはそういうことだったのだ。「その手は桑名の焼きはまぐり」はパロディであるが、同時に暗喩である。つまり、「その手」=「焼きはまぐり(のようなもの)」という意味が派生する。
 コピーが内容に基づいて変形されていない、という点で駄洒落は普通と別の自由度がある、意味にとらわれない飛躍である。これを駄洒落の強みと考えることもできるだろう。

 パロディではフレーズの受け手にオリジナルがわからないと駄洒落として機能しない。そのため、様々な別の技法と組み合わせられることが多い。暗号でいうところの鍵が問題になる。たとえば「アリが10匹で、ありがとう」は、自己完結型か、パロディか。微妙だが、私の考えによれば、これはパロディである。




駄洒落としての言葉遊び
 みなさん既にご存知の伸しイカの詩歌は、自己完結型の駄洒落としては最小(余分がない)である。これは当初から言いたいことのひとつであった。しかし、それだけではない。ある種の言葉遊びは駄洒落として考えると少し違った見え方をするのではないか、ということについても述べておきたい。敢えて、駄洒落を音の類似に限らなかった理由はここにある。
 例えば回文は、前半をオリジナル、後半をコピーと見ることで、自己完結型の駄洒落と考えることができる。偶数音からなる回文は、「伸しイカの詩歌」と同じく、自己完結型の駄洒落として最小である。
 また、アナグラムという言葉遊びは、文字の順番を並べかえて別の意味を持つ言葉を作るものであるが、本来はオリジナルを隠すのでパロディである。
 いわゆるいろは歌の一般化であるパングラムという言葉遊びは、五十音(実際は四十六文字)のアナグラムだから、もちろんパロディ。
  
 …という具合である。変形の仕方がルールになるので新しい言葉遊びが可能かもしれない。ちなみに暗号は言葉遊びかどうかはともかく、定義から見て明らかにパロディである。ということは駄洒落である。

 だから何だと言われたら、元も子も有馬温泉。



2001.11.14 Joker


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