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認知言語学をつくりなおすということ

 真善美などと言う。これまでの言語理論は、真理偏重だったと言えるのではないか。善について歯切れが悪いし、美についてはほとんど無視されているような気がする。たしかに、構造主義の言語理論や生成文法は、客観的で合理的な分析ができるので大成功した。でも、それは人間よりコンピュータの説明に適した理論だったのではないか。真偽のみを問題にするから、人間が矮小化される。もっと色々な面から考えよう。コンピュータにできない大切なことはたくさんある。

 そういう文脈だったのかどうだったのか。認知言語学の創成期。レイコフはアナロジーの分析で、伝統的な言語観に風穴を開けたらしい。しかしながら、レトリックは今のところまだ言語理論だとは思われていないはずである。言語理論然とした言語理論とレトリックは、出自も経歴も興味の対象も違っていた。

 おおまかに言えば、レトリックは、ことばのはたらきの分析として始まった(レトリック1.0)。それから数千年経ってことばのかたちを分析するものになった(レトリック2.0)。筆者はこのどちらも採らず、多義性の知覚という面からレトリックを捉え(レトリック3.0)、あわよくばそれを言語理論に鍛え直したいと思っている。

 多義性は主流の言語観から言えば、例外的で周縁的なものだった。多義性は、排除され隠蔽され、どうすれば一義化できるかということばかりが議論されるような、厄介な代物だった。それこそ主流が真理偏重だった証拠ではあるまいか。べつに真理が悪いわけではないが、芸術にしろ芸能にしろ、多義性を生産すること、あるいは一義性の衣服に隠された、深層の多義性を露見させることが、その仕事の大半であった。などと、そんなふうにすら言えてしまいそうな気がする。多義性の知覚は、日常に溢れている。そして、これこそが(今の)コンピュータにできないこと。それを象徴する資格があるものなのではないかと筆者は考えている。

 相対主義に堕するつもりはない。
 途中の議論は色々あるが、今描いているゴールはこんな感じ。

① 人間に対する誤解を解く → 認知科学の問題を変容させる。
② 旧レトリックの雑多な研究対象を統一的に扱えるようにする。

 所詮ホラ話かもしれないが、どうせなら大ボラの方が面白い。


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