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人間は機械かもしれない、でも

 人間は機械かもしれない。それはそれでいい。でも、どんな機械なのか。そこら辺にある機械、私たちが仕組みを知っているような機械とは、仕組みの違う機械のはずだ。なぜならば、私達が知っている機械にはこれこれができないからである。

 私たちは、人間にはこれこれができると思っている。これこれには色々な種類がある。しかし、そのほとんどは機械にアスペクト知覚の能力というものを与えることができたなら、説明できるものなのではないか。問題をアスペクト知覚の能力に還元することで、人間と機械との橋渡しをする、あるいは人間と機械とを明確に区別する。そのあたりが本書の主目的である。
 
 さて、この、還元を行う過程で、言語理論に立ち入る必要が生じる。これまでの言語理論は、私達が仕組みを知っているような機械、たとえばコンピュータの説明には適していた。しかし、それは、アスペクト知覚の隠蔽ということの上に成立していたものだと考えることができる。アスペクト知覚を論じるには、新しい言語理論が必要だ。その母体となるものの候補がレトリックである。

 レトリック論で重要なのは、①文芸理論、②擬人法、③駄洒落である。
 ① 文芸理論
 創作、鑑賞、分析。旧レトリックの長所と短所を調べる。
 ② 擬人法の話
 主体客体は対象の性質ではなく、記述の問題。すなわち擬人法の結果である。
 ③ 駄洒落の話
 記号は駄洒落である。

 人間固有の特性と考えられていたこれとこれとこれは、①②③で説明できる。そして①②③はアスペクトである。そこを示せたなら、あとはアスペクト知覚のメカニズムを解明すればいい。それで人間がどんな機械なのか、あるいはどんな機械ではないのかということが明らかになる。

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ここまでこのブログで書いてきたことと重複が多いけれど、かなり話がすっきりしてきたのではないか。こんなのが書けたらいいなと思う。まだレトリック論の組み立てが甘いので、次はそこをうまく組織しよう。


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