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2013年01月 の記事一覧

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言語にとって主体とは何か

主体や自由意志と、決定論的世界観(宇宙の初めから終わりまで物理法則が決定しているという世界観)は食い合わせである。両立が難しい。しかし、できれば、自然学が主体とは何かをきちんと理解できた方がよい。

ところで、なぜ私は主体にこだわっているのだろうか。それが今回の議論の主題である。

言語にとって主体とは何か。言葉があるとすれば、それを喋った人か、あるいは書いた人かがいるはずである。つまり、言葉の存在は、発話や筆記の主体を要請する。

文字を映し出す機械・音声を発する機械について考えてみよう。電光掲示板の映し出す文字、ラジカセの発する音声から、読む側・聞く側(受信者側)はメッセージを読み取る訳だが、この場合、電光掲示板やラジカセは、ただの媒介(メディア)である。受信者は、電光掲示板の向こう、ラジカセの向こうにいるはずの発信者を信頼しているのであって、電光掲示板そのもの、ラジカセそのものを主体だと誤解しているわけではない。少し複雑なものとしてカーナビを考えてみる。カーナビは目的地までの音声案内全体が予め個別に企画されている訳ではない。けれども、それを言葉として理解し、受け止めてよいのは、カーナビ設計者への信頼が背景にあるからであろう。その意味では、カーナビもメディアの一変形にすぎない。

次に、人間の発話について考えてみよう。物体から音声が出る点は、ラジカセと一緒である。ところが、たとえば佐藤さんが「悲しかった」と言えば、それは佐藤さんが悲しかったのであって、佐藤さんの向こうにいる何者かが悲しかった訳ではない。佐藤さんはメディアではなくて、主体なのだと見なされなければならない。さもないと、佐藤さんが腹を立てても文句は言えないであろう。

最後に、主体が発信しなかったものが言葉になり得るかどうか考えてみよう。たとえば、神々の声をきく巫女。星々の瞬き・風の歌・樹皮の皺から精霊のメッセージを読み取ろうとする老人。暗号解読せよと軍から強制された出鱈目な数字列を、必死で読み解こうとする数学者。雑踏で聞いた空耳に絶望し、自殺してしまう少年。……極端な話ばかりのようだが、どうもこれらのケースでは聞く側・読む側(受信者側)に問題があるように感じられる。これらの受信者が何か(架空の発信者の)代弁をするとして、おそらく全幅の信頼を置く訳にはいかない。ここにおける発話や筆記の主体は、おそらく彼ら自身と見なされなければならないであろう。仮に彼らが自らをメディアにすぎないと主張し、我々の解釈を承服しないであろうとしても。

そういう訳で、やはり言葉には(発話や筆記の)主体が必要であるらしい。人文学の基盤を失ってよいなら、主体など放棄しても構わないのだが、そういう訳にもいくまい。これが私の主体にこだわる理由である。

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蛇足になるが、じつは主体か否かは対象の性質ではない。記述の問題である。自然学は対象の性質を明らかにするものであろうから、直接に主体の解明をする訳には行かないであろう。では、何を解明すべきなのか。それは、生物学・医学がこれまでやってきたことの延長。人間がどんな機械なのか、ということに尽きると思う。
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幽霊について

そういえば、このブログのタイトル『記号の中の幽霊』の「幽霊」のことを何も書いていなかった。なぜ幽霊なのか。幽霊とは何か。解説のため、むかし書いたエッセイを引用しておこう。

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馬の卵


卵が先か鶏が先かというアポリアがある。
これは生物学ではなく言葉の定義の問題である。鶏の卵とは何か。
鶏が産んだ卵のことを指すのならば、鶏が先でなければならない。
鶏が生れる卵のことを指すのならば、卵が先でなければならない。

加藤さんが街で志村さんを見かけ声をかけたら別人だった。
別人と気づくまでのあいだ、加藤さんは誰を見ていたのか。
その場に存在しないものでも、条件さえ揃えば見えることがある。
これをおばけを見ると言う。

ここに、鼻先にニンジンを糸でぶら下げられた馬がいるとしよう。
追いつけばあれを食えると思って馬が走るのであれば、かの馬は、
ニンジンを見てるつもりでニンジンのおばけを見ているのである。

はじめの卵と鶏の話では、鶏の卵のおばけが暗躍していたわけだ。
たぶん、あんなのをお祓いと言うのだろうと思う。

見えるもの必ずしも存在しない。
しかし、見えるものは僕を怖がらせたり、僕を駆り立てたりする。
もしかすると、存在しないものの方が影響力が大きいこともある。

飛んで火に入る夏の虫は、一体何を見ているのだろうか。

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という訳で、私は疑似問題のことを幽霊と呼ぼうとしていた。たとえば、自由意志と決定論の哲学的アポリアも、疑似問題であり、それは言語に対する誤解に由来する。そんな風に私は考えている。

ちなみに、卵と鶏のくだりは、私独自の解釈ではなく、誰かの受け売りである(養老孟司だと記憶しているのだが、調べても見つからなかった)。それを「おばけ」と表現したのは私の独創かもしれないけれど。

ところで、幽霊については、私の中で、ふたつのエッセイが鳴り響いている。安部公房と小林秀雄だ。

安部公房は「枯れ尾花の時代」というエッセイで「幽霊の正体見たり枯れ尾花」は誤りで、枯れ尾花は幽霊の正体ではないと指摘した。うろ覚えだが、樹氷が幽霊だとすれば「枯れ尾花は樹氷の芯にすぎない」。幽霊の正体は「歴史や文化…が絡まりあったもっと複雑なもの」というのが安部の主張である。これは、幽霊に対する私の考え方の基礎を成している。

小林秀雄は『考えるヒント』シリーズのどれかに、幽霊についての話があった。幽霊はいるかいないかの討論に、幽霊は存在すると主張する婦人が登場する。戦死した主人が夢枕に立った。だから、幽霊はいると。ある歯科医がこれを反駁する。夫が戦死して夢枕に現れない例の方が多い。彼らはなぜ妻のもとへ現れないのか。ここで、小林秀雄は、歯科医の態度を非難する。主人が夢枕に立ったことは、夫人にとって重大な、深い意味のあることだ。それを他人が無責任に批判するのは、科学の名を借りた暴力だと。

どちらも読み返さずに書いたので一部創作になっているかもしれないが、大方そのような方向の話だったと私は記憶している。正しいのは安部公房だが、小林秀雄にも一理ある。そして、人文の科学を立てようと考えるとき、幽霊に対する態度決定は、非常に重要な試金石となる。そんな風に私には感じられるのだ。

記号の中に幽霊はいる。それを暴くことが誰かを傷つけるかもしれない。でも、いつまでも旦那の幽霊にとらわれていては、時計は止まったままではないだろうか。幽霊の正体は、いちど、きちんと明らかにする必要がある。

ブログデザイン更新

デザインを改めました。約2年間、ブログを放置してしまいました。

件の彼女とは結婚し、いまや妊娠3か月。

2013年は公私とも忙しい年になりそうですが、ここもたまには更新したいと思います。

ひとつ、よろしくお願いいたします。

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