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2010年01月 の記事一覧

文法の自然化とレトリックの自然化

構想。焦点をどこに結ぶか。

チョムスキーの生成文法は、文法を自然化したのかもしれない。ここで自然化というのは物理への還元、くらいの意味だ。べつにチョムスキーのおかげでコンピューターができた訳ではないけれど、記号処理とか、情報とかは、既に物理的なハードであるところの、コンピューターに乗っている。文法現象については、こんな古典的なコンピューターモデルで、ある程度の記述ができた。つまり大雑把に言えば自然化できたのである。逆に言えば、文法なんてのは、その程度の現象なのだと考えることもできる。

分からないのは、意識だの、認知だのという現象は、コンピューターをどうひっくり返しても出てきそうにないところだ。チョムスキーについて詳しくないのだが、もちろん問題意識が違うなら、べつにそんなの説明する責任はチョムスキーにはない。

レイコフ以降の認知言語学は、比喩の理解など言語の認知的側面について、さまざまなメンタルモデルを提出した。しかし、これが、何らかの、物理的なハードウェアの上で、うまく実現されたという話は、寡聞にして知らない。たぶん、こちらは自然化するためにモデルを考えていたのではなくて、また何か違った問題意識に基づいての研究だったのだろう。

私はレトリックの認知を自然化したい。それにはおそらく単なるチューリングマシンでは不足で、ひとひねり加わった別の物理モデルが必要になる。それが出来たなら、言語も人間も、今までとは、まったく違ったふうに見えるだろう。

なぜレトリックなのか。先見性を私ごときが称えたところでレイコフが喜ぶとは思えないが、レトリックは、文法やコンピューターモデルによる説明の網目が取り逃がした魚である。魚が大きいか小さいか。別の網で捕まえてみないことには、分かるまい。それが私の言わんとする、レトリックの自然化である。

別の項目で書いたことのくり返しになるが、レトリックは私の考えでは記号に対するアスペクト転換である。そして、コネクショニズムについて考察してみると、アスペクト転換はチューリングマシンに乗らないのではないかという気がしてくる。私にはこれがレトリックの可能性の中心である。

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新年

しばらく更新しなかったので、広告消しに何か書こう。

本は相変わらず買っていて、ホンゲル係数が大変なことになっている。
とくに大きな買い物は神保町で見つけた認知科学選書24巻セット、2万円。
なかなか読めていないが、パラパラ見るに
実験心理学上の色々な事実などが、勝手な思い込みを正してくれそうだ。

さいきん、カラオケ熱が再燃している。ひとりでカラオケに行って録音する。
ずいぶん下手になった。リハビリである。
私の宴会芸の極致がDAM★ともで聴ける(リンクから飛べる)。
それから、mixiさだまさしコミュニティのカラオケ・オフ会にも参加する。
今日はその選曲に二時間くらい掛けた。
明日は会社の駅伝大会のための試走会。
駅伝にしろカラオケにしろ、こういう肉体を伴うことは、
思い通りにいかないのが絶望的に身にしみるので、そこが面白いといえば面白い。
今日はじめてジャージを買って練習したが苦しい、明日が私の命日かもしれない。

本の構想。いろいろ迷っている。結局、何を目標に置くかなのだ。
ひとつの選択肢としては、
アスペクト転換のモデル化には非チューリングマシンを必要とする
という予想を焦点にして、その前後を埋めるという路線が考えられる。

なぜアスペクト転換なのか。
どうしてアスペクト転換だと思ったのか、そしてそれは何になるのか。

この立場から考えれば、科学哲学だの、文芸理論だのは、結局、
アスペクト転換がなぜ重要なのかを訴えるための、材料にすぎない。
もし、記号に対してアスペクト転換できるという意味で
人間が特殊な存在だとすると、いろんな真面目なオハナシがひっくり返る。
これが重要でなくて何であろう。

ずいぶんすっきりするが、
この図式と私の言いたいことは、本当に一致しているだろうか。
まだまだ、きちんと書けそうな気がしない。帯に短し襷に長し。
毎日のように、ああだこうだ、うだうだと考えている。