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2009年11月 の記事一覧

哲学とたとえば文学のつながり

フレーゲ言語哲学。ソシュール構造言語学。チョムスキー生成文法。レイコフ認知言語学。これらを乗り越えること。たとえば、これら従来理論に対して信号言語と計算言語というくくり方をしてみた。これはどんな前提への批判なのだろうか。そしてこの批判はどこに根を持つものなのだろうか。

ひとつは誰もいない映画館の不思議。どうして宇宙は誰もいない映画館ではないのだろう。これは要するに、主体概念の謎である。私の見立てでは言語こそがその鍵なのだが、今のところどの路線に乗っても謎は解けそうにない。これは前提が悪いのであろう、というのが、まず根本にある。
もうひとつは、各言語理論が、たとえば文学現象の記述に向いていないように思われるところだ。言葉は文学の素材なのに誰もそんなことを言わない(少なくとも周縁領域でしかない)のが不思議だ。言語理論の対象と文学の言葉は別物なのだろうか。この路線でいちばん方向性の近いのは、レイコフの認知言語学かもしれない。

各言語理論はそれぞれに特有の人間観、たぶんある種理想化された人間観とセットになっている。フレーゲなら論理的、計算的な人間。ソシュールならラングを担う母体としての通信局的な人間(というと語弊がありそうな気もするが)。チョムスキーなら普遍文法を搭載した、非タブラ=ラサな人間。レイコフのは、まだ不勉強でいまいちうまく焦点を結べていないが、まあ、いろいろと認知機能に仮定の入った人間であることは確かだ。
なぜこのような理想化が行われるのか。理想化しないで、いろいろあるねでは、理屈にならないからである。

いちばんうまく行ったときのことを考える。巨人達の大伽藍といえど、いくつかの前提からスタートしている。批判は土台に加えれば充分だ。しかし、枯れ木と共に果実を捨てていいものかどうか。たとえば皮をむいていくと玉ねぎはなくなってしまう。あとは涙がでるばかり、では困る。

転換への還元。たとえば、フレーゲの計算を、ソシュールの構造を、チョムスキーの文法を転換で説明し直す。さらに私に固有かもしれない疑問をも転換の見地から説明してみる。それでこそ、花も実もある新しい理論といえよう。しかし、さて、はたして、そんなにうまく行くのか。

ところで、文学って結局、この文脈において何なのか。一見均衡を欠いた取り合わせのように思える。だが、本質は文学の中に全部入っている。創作・鑑賞・分析。

伝統的な批評はあまりに高尚なもの深遠なものを求めたために科学から乖離した。私が文学作品の分析を通じて取り出したいのは、もっとチープな、どこにでもある、しかしそれなしでは、ほとんど文学が不可能であるような現象=転換なのである。

ここでコンピュータに文学が分かるか、と文句を言ってみてもいい。文学は猿にもコンピュータにも分からない。これが人間の特殊性でなくて何であろうか。なんてことを言えば、それは法律でも政治でも経済でも芸術でも科学でも、何でも同じことではないかと反批判されそうな気もする。まったくその通りであろう。たぶん、これら人文現象はすべて、人間の動物としての特殊性に端を発している。高尚や深遠を期待する人の意に添うわけにはいかないが、ここで私が文学を対象として扱うのは、例として扱いやすいからに過ぎない。


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民話分析とユング

初期の構想では、本の分量の半分は、文学系の話題に費やす予定だった。伝統的なテクスト分析とは、少し毛色の違った文学作品なりの分析ができないかと思っていたのである。アスペクト転換と見える箇所をテクストから拾い上げて分析するようなものを思い描いていたのだが(このこと自体は凡庸なアイデアだ)、それと価値、たとえば文学的な価値を短絡させると、いろいろな弊害が起こってくる。この問題の回避が当初私にとって、大きなテーマになっていた。

いま本の構成上、問題になっている部分は少し違っている。最近、非チューリング性とか、主体概念といった、人間の特殊性(と私が勝手に考えているもの)についての話を追いかけている。これはこれで話が中途半端なのだが、たとえそれが完成したとしても、それと文学とに何の関係があるのかよく分からない。つまり、両者の接続が難しくなってきているのである。

どうしたものかと思うが、そこはのんきもののこと。たぶん適当なところでこのふたつの話は繋がってくると楽観しているし、たとえ繋がらなかったとしても構想全体が雲散霧消する訳ではあるまい。まあ、なるようになるであろうと高を括って、あれやこれや考えているような所である。

閑話休題。民話分析とユングである。民話分析といえば、条件反射的にプロップの名前を思い出していた。プロップの分析をアスペクト転換に還元する、あるいは同じことだがプロップの31の類型を、徹底的に相対化するような話を薄ぼんやりと考えていた。駄洒落から比喩へ、比喩から寓喩へ、みたいな連想が働いたのである。今日ふとユングのことを思い出したのは偶然なのだが、ユングはユングでお話の分析が仕事だった。フロイトよりも魔術的な香りのする精神分析である。

私は超自然的なもの、オカルト的なものを、理屈の上、少なくとも本を書く上では極力退けておきたいと思っている。直接ユングの路線に乗るわけにはいかない。しかし、もしかするとユングを、ユング自身思っていなかったような方向で再評価できることがあるかもしれない。ストーリーの分析において、フロイトになくユングにあるような、方法乃至はその萌芽を探すこと。話は飛ぶが、フロイトとダーウィンはおそらく親和的で、それに対する不満が私にはあるのであった。

思いつきにとどまるかもしれないが、下手な鉄砲は数撃つより仕方ない。とりあえずメモとして残しておこう。