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2009年08月 の記事一覧

チューリングマシンについて

 人間はコンピュータではない、という主張を明確化するのであれば、チューリングマシンについて考える必要がある。厳密な定式化は忘れたが、何か長いテープに書き込んだり、書き込みを消したりするような、仮想的な機械のことだ。コンピュータが実用化される以前に、アラン・チューリングによって、数学モデルが作られた。

 現在の実用的なコンピュータは基本的にチューリングマシンと同型である。また、万能チューリングマシンというアイデアがある。すべてのチューリングマシンは万能チューリングマシンによって、エミュレート可能なのである。そして、妙な話だが、すべてのチューリングマシンは、万能チューリングマシンである。要は、どんなコンピュータでも無限の記憶媒体さえあれば、別のコンピュータを真似できるということ。こういう訳で、あらゆるアルゴリズム、計算はチューリングマシンに搭載させることができる(そのようなものとして、ここではアルゴリズム、計算なるものを考える、というべきか…)。ここで重要なのは、アルゴリズムが決定論的(入力と出力の関係が一定)だということだ。

 ナイーブな自由意志論者からすれば、アルゴリズムの決定論から自由意志は生じない。人間は自由意志を持つ。ゆえに、人間はコンピュータ(チューリングマシン)などであるはずがない、という話になるのであろう。人間には能動性があるが、コンピュータは単に受動的なだけだ。しかし、これは、私の言葉に翻訳すれば、人間は機械ではないという主張と同等である。それが、物理主義的な立場、決定論的な立場と深刻な相克を生じるのは言うまでもない。

 一方、信号言語モデルに立てば、人間は言葉を使うときに、ただ記号の順列組合せのような、あるいは論理演算のような計算をしているだけである。この立場では人間がコンピュータになってしまうのだが、これは私の考えによれば、言語に対する誤解に基づく。それで私は、人間は機械だが、コンピュータではない、と主張しようとしているのである。

 さて、仮に私の議論で、コネクショニズムの反証が得られたとしよう。人間の精神活動はコネクショニズムでは捉えきれない。しかし尚、人間はコンピュータではない、という主張は立証されない。それは、単にニューラルネットモデルの限界であって、チューリングマシンの限界ではないかもしれないからだ。私の考えでは、言語には、知覚の転換が大きくかかわっている。たとえばルビンの壺の反転のような。これは、とくに能動的な過程ではないが、しかし、チューリングマシンでエミュレートできない。……であろうという予想を、私は立てているのであった。

 転換の何が難しいのだろうか。たとえば、ジャストローのウサギ・アヒル図というのがある。同じ図形があるときはウサギに見え、あるときはアヒルに見える。これは何なのか。ウサギまたはアヒルだろうか。ウサギかつアヒルだろうか。あるいは、ウサギでもアヒルでもないのか。ジャストロー図形において、ウサギとアヒルは、アンドでもオアでもない形で結びつけられている。この意味で、転換は古典論理を超越する可能性を持っているような気がするのだが、まだ今のところ、うまく言葉にできない。難しさの程度もよく分からない。案外簡単なのかもしれない。頭の中のアヒルが絵に投射されたり、頭の中のウサギが絵に投射されたりしている、この感じ。これをチューリングマシンは実現できるのであろうか。

 クオリアをめぐる言説はあまり好きではないが、どうもこのあたりの議論になると話が似てきてしまう。もう少しよく考えてみよう。

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購書メモ・読書メモ 8

1 イアン・スチュアート『自然界の秘められたデザイン』
2 エリオット・ソーバー『進化論の射程-生物学の哲学入門』
3 サム・ウィリアムズ『人工知能のパラドックス』
4 グレゴリー・ベイトソン『精神と自然-生きた世界の認識論』
5 ジョン・R・テイラー『認知言語学のための14章』
6 ドナルド・デイヴィドソン『主観的、間主観的、客観的』
7 福岡伸一『世界は分けてもわからない』

を日本橋の丸善で購入した。前回からのブランクにいくつか別の本も読んだが、それはまた別の機会に書こう。

1はI・スチュアートのファンなので。このブログとの関連性は薄いが、期待度は高い。

2は有名みたいなので。意外とこの、生物学の哲学という分野は成熟している。進化論論争が加熱したためか。生物学の哲学全体に「機能」の概念がポイントだと思うが、これはおそらく、完全には自然化できない(できたと思っている人もいるだろうが、私は眉唾で臨む)。機能による課題遂行というとき、その課題(命題)の記述が問題になるに違いないからである。

3は、そういえば人工知能の歴史をよく知らないなと思ったので。冒頭に年表がある。いろいろ重宝しそうだ。

4は、タイトルに惹かれて。ベイトソンという名前はうっすら聞いたことがあったが、Wikipediaによれば1904年生まれらしい。古いのは悪いことではないが、あまり期待するまい。暇なときに読もう。

5は、認知言語学が云々と主張するのなら、とりあえず読んどかねばと思って。帰りの電車でパラパラ眺めた。単義性/多義性の話があったり、両義性/曖昧性の区別があったりした。しかし、我流の用語法と少しかみ合わない。このあたりの用語の問題もあるのだ。どこまで我侭を通すべきか。

6は、宿敵デイヴィドソンの本なので。と、勝手に宿敵扱いしてしまったが、偉い人なのは間違いない。それは飯田隆『言語哲学大全』の構成を考えてもわかる(ちなみに『言語哲学大全』は読んでいない。読むと大変そうなので)。換骨奪胎、まじめに読みたい本。

7は『生物と無生物のあいだ』が面白かったので。ただ、著者が最も主張したいであろうところの「動的平衡」の概念には、あまり魅力を感じていない。タイトル、反分析的という意味では、コネクショニズムに通じるところもあるやもしれぬ。これは牽強付会か。