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2009年05月 の記事一覧

2009/5/27(水)の構成

再構成してみた。これはまだ独りよがりなメモに過ぎないが、多義性とアスペクト知覚を区別することで、レトリックが挟まるための流れはよくなった気がする。


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α まえがき

Ⅰ 言語の中の人間
 1 人間という不思議(主体概念が引き起こすアポリアの提示)
  (1) なぜ宇宙は誰もいない映画館ではないのだろうか
  (2) 決定論と自由意志の問題
  (3) 動物としての人間 - 合理主義的な人間観
  (4) なぜ言語なのか 行為を記述する人間
 2 言語の何が問題なのか
  (1) 合理 表象 etc.
  (2) 自然言語処理
  (3) 言語の一義性モデル(信号モデル)
 3 言語と人間
  (1) 人間の過大評価と過小評価
  (2) 人間の認識にとって多義性とは何か
  (3) 多義性の見本市としてのレトリック (反例の形成・矛盾点の指摘)

Ⅱ レトリック
 1 レトリック概論
  (1) 考察の枠組み
   ① 創作と鑑賞と分析と
   ② レトリック研究の分類
    ・ レトリック1.0 はたらきの分析
    ・ レトリック2.0 かたちの分析
  (2) レトリック研究の歴史
   ① 古代ギリシア
   ② 中世ヨーロッパ
   ③ 近・現代
 2 レトリックのカスタマイズ
  (1) 比喩と駄洒落と擬人法と
  (2) ルビンの壺とウィトゲンシュタイン
  (3) レトリック3.0 アスペクト分析の記号部門

Ⅲ 記号の中の幽霊
 1 言語観の変容
  (1) 言語の起源 (反ダーウィンの言語観)
  (2) レトリック3.0から見た言語
  (3) 既存の言語モデルとの関係
   ① 構造言語学 ソシュール
   ② 生成文法  チョムスキー
   ③ 分析哲学  フレーゲ ~ デビッドソン
   ④ 認知言語学 レイコフ
 2 人間観の変容(認知科学)
  (1) 人間の謎は解けたのか
  (2) 記号の中の幽霊
  (3) アスペクトの物理的な基盤についての仮説
  (4) 人工知能
 3 まとめ

Ω あとがき

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多義性とアスペクトの区別というのは、どういうことか。たとえば、チェスチャンピオンのカスパロフに勝ったチェスプログラム、ディープ・ブルーを考えればいい。チェスゲームにおいて、一手の意味は多義的である。コンピュータも多義性を扱える。ただ、アスペクト知覚ができないだけなのだ。

進んでは戻り、戻っては進む。試行錯誤しか戦略を持たずに、ルービックキューブで遊んでいるみたいだ。あるところまで進んでしまえば、きっとあとは粘土細工と同じことになるのだけれど。

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購書メモ・読書メモ 7

1 大津由紀雄/波多野誼余夫『認知科学への招待 心の研究のおもしろさに迫る』
2 大津由紀雄/波多野誼余夫/三宅なほみ『認知科学への招待 2』
3 J.ホップクロフト/R.モトワニ/J.ウルマン『オートマトン 言語理論 計算論 1』
4 米田政明/〔ほか〕『オートマトン・言語理論の基礎』
5 ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー『量子が変える情報の宇宙』
6 現代思想 2007-12『量子力学の最前線-情報・脳・宇宙』
7 島泰三『はだかの起原 不適者は生きのびる』
8 リン・マーギュリス『共生生命体の30億年』
9 F.M.コーンフォード『ソクラテス以前以後』

を購入。

1と2は、認知科学の概説本として。このブログで訳もわからず認知科学、認知科学とわめいているが、本当のところ、どんなことをやっているのか。入門としてある程度網羅的な本みたいなので、現場の雰囲気を知りたくて買ってみた。

3と4は、敵の道具を知らねばならないと思って。このあたりが計算主義的な言語観として最も洗練された部分であろう。ところが、じつはこれらの本は本質的に敵ではないのではないかという気もする。たぶん私の敵視する計算主義とは目的が異なるのである。それにもうひとつ期待があって、こっちの方が買った理由としては大きい。それは、駄洒落の形式変形についての理論がほとんど形式文法の理論に一致するのではないかということ。少なくとも参考にはなるはずである。この類の本は積読になりがちなのだが…。ちなみにオートマトンは、かつてフラクタルをかじった私にとって懐かしい響きの言葉ではある。

5と6は、アスペクトと量子情報の関係について妄想を膨らませるため。量子コンピュータは、RSA暗号の解読ツールとしての期待により有名になったが、計算量の問題にはあまり興味がない。質的にはチューリングマシン(古典コンピュータ)を越えないからである。私の関心はもっと原理的なところ。たとえば、QUBITという情報単位など神秘的ではないかと思う。

7と8は、進化論系。生物の話は具体性が魅力、読んでいて飽きない。とくに7は、今回購入した中ではいちばん期待が高い。著者は人類の裸化がダーウィニズムで説明できないことを、「不適応者は生きのびる」と表現している。我田引水になるが、裸化のみならず、言葉の獲得も、人類に不適応を招いたのではないか、というのが私の説。本書を参考に自説を補強したい。書き出しも小説気取りで、なかなか上手い。8はトンデモから科学へ、の見本かな。

9は、有名。じっさいソクラテスが何をしたのか知りたい気分もあって。というところか。


話はどうなっているか

いまの課題は、言語とレトリックを繋ぐことにある。まず、言語の方の話を整理する。

人間とは何ぞや。という問いがある。これに対し、人間はコンピュータだというのは過小評価だが、人間は機械ではないというのは過大評価であろう。つまり、人間も物理法則に従う。では、どんな機械なのか。アスペクト知覚をする機械だと仮定してみる。それでは動物と区別がつかなくなる。動物もアスペクト知覚くらいできるであろう。そこで言語が登場する。人間は行為の記述を記号の形で持つ動物である。これはおそらくは、倫理的な人間像と言ってよい。

そこで、言語観が問題になる。いま主流の言語観に従えば、人間がコンピュータになってしまう。そうでない証拠はたくさんあるのだが、有力な対抗馬がないために主流の言語観は崩れない。ここへ、アスペクト研究の記号部門としてのレトリックをぶつけたいのだ。言語VSレトリックと言えばレイコフ以降の認知言語学である。主流の言語観をゆるがせた功績は大きいが、これは言語の多義性のうちのひとつを特権化してみせたにすぎない。いわく身体性が根源である。

レトリック的な認知過程が言語において本質的である。そういう主張をする人は少なからず存在する。だが、レトリック的ということの意味が、おそらくはその人と私とで異なっている。そうなると立証過程もかわってくるはずだ。どんな順序で何を説明すれば、本になるだろうか。私の考えでは、修辞学の出自を問い直すことが必要なのだが、いまのところ、その話をどこでどう展開すればよいか、どこに入れ込めばよいか、構成が見えていない。その構成を考えること。これが、言語とレトリックを繋ぐ、ということの意味である。

言いたいこと、やりたいことは単純なのだ。あるいは、やっとここまでシェイプアップできたと言ってもいい。人間を過小評価から救いたい。オカルトの手を借りずに。


購書メモ・読書メモ 6

1 ドナルド・D.ホフマン『視覚の文法 脳が物を見る法則』
2 ジョージ・ガモフ『1,2,3…無限大』
3 ニコラス・ハンフリー『喪失と獲得 進化心理学から見た心と体』
4 月本洋『ロボットのこころ 想像力をもつロボットをめざして』
5 井上真琴『図書館に訊け!』

を購入した。今回は発送時期が揃ったものをまとめて買ったので、テーマはばらばらだ。

1は、認知科学系の本である。この間読んだ『〈意識〉とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』が面白かったのだが、著者の下条信輔さんの専門が視覚の認知過程ということで、飛び火してみた。タイトルが「視覚の文法」ということで、チョムスキーの生成文法理論と親和性の高い議論になっているようだ。まえがきと第一章をパラパラと読んだところでは、はったりが強いというか、なんともアメリカンな文体が面白い。読みやすい。そうまで芝居がからなくてもついていくのだが。

2は、一般向けの科学コラムとして有名な本なので。見る限りフツーの印象だが、これは二番煎じのコピー本が多数発生したからかもしれない。内容はなかなか高度。哲学者のカントが惑星のできかたについて論じていたのは知らなかった。

3は、何だったか。養老孟司推薦とか帯に書いてある。「心身問題の解き方」が面白そう。原著は名文らしいのだが、訳文が硬い。読みにくくて閉口する。

4は、戸田山和久/〔ほか〕編『心の科学と哲学 コネクショニズムの可能性』からの飛び火。著者は仮想的身体運動というアイデアで言語の神秘を解こうとしている。文章は上手くない。また、アイデアも不振な気がするのだが、主張が明瞭な点が好印象。フェアな感じ。著者の主張には、まったく賛同しないけど、批判的に読むというより、現場の雰囲気を知りたくて買ったという趣が強い。

5は、図書館を使いたいので。司書っていいなあと傍から憧れたりするけど、実際どうなのかとか。……無理に理由をつけたが、たまたま発送時期が同じだったから買っただけだな、これは。


なぜ言語なのか

人間とは何か。行為するものである。行為を行為たらしめているものは何か。言語による記述である。これは人文現象にとって本質的な側面ではないか。

自然現象とは事情が異なる。人間が書こうが書くまいが、あるいは見ようが見るまいが、落下するりんごの運動はあらかじめ決まっていると考えてよい。ところが、行為の意味は記述で変化するのだ。

たとえば、言葉がなければ人間は存在しないのだと言ってみる。誤解して欲しくないが、言葉を喋れない、聞き取れない者、あるいは言葉の読み書きができない者は人間ではない、というような差別的な主張をしたい訳ではない。物理的な対象としての人間ではなく、まず何として人間が記述されているかということ。ウィトゲンシュタインに倣って言えば、人間という語の用法が問題なのである。

さて、しかし、動物も行為するように見える。犬や猫を見ても、腹が減ったんだなとか、怒っているなというようなことは分かる。動物行動学という学問もある。これはどういうことなのだろうか。