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2009年04月 の記事一覧

購書メモ・読書メモ 5

1 ヒューバートL・ドレイファス『コンピュータには何ができないか 哲学的人工知能批判』
2 下条信輔『〈意識〉とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』
3 山本貴光 吉川浩満『問題がモンダイなのだ』

を購入した。

1は、いつか買わなければならなかった。このブログの過去の記事を読んでいただければ分かるのだが、私も「コンピュータには何ができないか」を考えている。というより、この本のタイトルに触発されて考え初めたところがある。昔から外題学問の徒であったが原典はまだ読んでなかった。ひどいなあ。

2は、何だったかな。それ系の本には違いないのだが、錯視系の話が載ってるのが味噌か。もしかすると、すでに持っていて、ダブり本になったかもしれない。

3は『心脳問題――「脳の世紀」を行き抜く』という本があって、面白そうだなと思ったのだが、絶版だった。著者は『哲学の劇場』というサイトを主催するコンビらしい。この『問題がモンダイなのだ』は、そのコンビが書いた別の本である。私も、もしかしたら「問題」がモンダイなのかもしれないと思っていたので、勢いで買ってしまった。どんな本かなとパラパラめくっているうちにいつの間にか読み終えていたが、これは本が薄いせいであろう。この内容なら、もっと薄くできたのではないかと思う。予告編の方が本編より面白い映画、みたいな印象だった。もったいない。


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言語の起原

もうひとつ。自分のサイトから、こっちに持ってきておく。

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http://ww4.tiki.ne.jp/~j344/essay/frame.html

言語の起原


言語をいきなり作ろうとすると、いろいろと変な話になる。
ことばがないときにも生活はあったはずだ。
たとえば狼に育てられた少女みたいに。
その人がたとえば類人猿に育てられた猿人であってもいい。

集団で狩をするときに「ホイ」なりなんなり掛け声をかける。
これで獲物に襲い掛かるタイミングを合わせていたと仮定する。
人間以外の動物にもこんなような言語なら(それを言語と呼ぶならば)ある。
ある原始人が狩以外のときに「ホイ」という声をあげる。
偶然や勘違いでもいいし、すでに意図のようなものがあったと考えてもいい。
とにかく、仲間の原始人には不意打ちである。
獲物が来たかと、または近所で狩をやっているのかと思い、
慌てるなり、騒ぎ出すなりするだろう。
「ホイ」と声をあげた原始人は、それを見て、
こいつらは俺の声で大騒ぎになったぞと思う。
もちろんことばがないので、そんなに明確に思えるものかどうかは知らない。
けれど、次は、彼はたぶんこの事態を意識して「ホイ」の声を出す。
また騒ぎ出す仲間たち。なんだか楽しくなってくる。
「ホイ」「ホイ」「ホイ」「ホホイのホイ」
気付くと彼は仲間にとり囲まれている。
獲物の姿がなかったので、仲間たちは不満なのだ。
彼はボコボコにされてしまう――。なあんだ、これは狼少年の話ではないか。

そこから先はいろんな物語があるだろうけど、
とりあえず、こんなのが言語のはじまりだったのではないかと思う。

駄洒落の構造

そもそもこの話がどこから始まったのか。2001年に自分のサイトで書いたのが、以下の文章であった。今では立場が変化している部分もあるけれど、参考までこのブログに掲載しておきたい。


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http://ww4.tiki.ne.jp/~j344/nosiika/frame.html


駄洒落の構造



前口上
 このページの主題は駄洒落について突き詰めて考えることである。
 特に参考にした文献はない。その道では常識的な話題や、あるいは見当違いの考察なども、知らず得意に展開してしまうかもしれない。先にお詫びする。




駄洒落の不確定性
 駄洒落と一と口に言っても、その語の指示する範囲はまちまちである。仮に、駄洒落か否かを判定する単位をフレーズと呼ぶことにしよう。ある人にとっては駄洒落であるフレーズが、別のある人には駄洒落でない場合がある。「私がここで駄洒落と呼ぶもの」を定義しなければならない。
 例から入ろう。大学の「総合科学部」のことを友人達のあいだでは「総科(そうか)」と呼ぶ慣わしがあった。学部生の頃、次のような会話がしばしばあった。
「次(の授業)どこ?」
「総科」
「そうか」
 この最後の「そうか」が駄洒落かどうかは人格に関わる大問題であった。

 これは心霊写真の扱われ方に似ている。写真に幽霊が写っていても、誰も気付かなければ、それが心霊写真と呼ばれることはない。また、幽霊が写っているのでなくても、木の影が人の顔に見えたりすると心霊写真扱いされることがある。
 友人は「『総科』を『そうか』で受けるなんてのは駄洒落である」と前提して、「私が駄洒落のつもりでそれを言った」という結論へと持ち込もうとしたのだが、結論の真偽はともかくこの推論は間違いである。




笑いを括弧に入れてみる
 私は駄洒落を「笑いを目的とした表現」として捉えない。駄洒落にはもっと大きな可能性がある。また「笑いを目的とした表現」の世界では常套的に形式を裏切るため、その枠組みでは定義しづらいという理由もある。
 しかし笑いという視点なしに、駄洒落を語ることは可能か、そもそも「つまらない洒落」というのが「駄洒落」の語義ではないのか。本来を言えば駄洒落とは、他人の口にした、つまらない洒落を「それはね、駄洒落だよ」と評価する場合や、自分が口にした洒落を「今のは駄洒落だったな」と自己採点する場合などに使われていた言葉のはずである。
 いま私が駄洒落と呼んでいる、それの輪郭をハッキリさせるには「地口」と呼んだほうがいいのかもしれない。が、どのみち、同じ問題は残る。地口とは何か? 同じことなら、私は駄洒落を通したい。駄洒落は明らかに、洒落の中の特定技法をも指す。
 その事情については、おそらく、こういうことではないだろうか。すなわち、技法として低級と見られているものが洒落の中に存在していた。そして、「その技法の洒落はつまらない」が、いつのまにか転倒して、「駄洒落とはその技法の洒落である」という誤解が生まれ、広まったのである。元が誤解であるにせよ、言葉には市民権があればいい。私がその本質を考えたいのも、この誤解の方の駄洒落だ。以降、駄洒落といえば一律に、それを指すものとする。なお本稿では洒落とは何かを論じない。




駄洒落の定義
 「駄洒落の不確定性」に登場した友人の、件の推論は認めないが、そこで友人が前提したことは評価してよい。「『総科』を『そうか』で受けるなんてのは駄洒落である」に私は賛成だ。つまりフレーズの形式から駄洒落の定義をしたいのである。
 漫画家の鳥山明が有名にした有名な駄洒落に「蒲団が吹っ飛んだ」がある。うろ覚えだが、これは同じく漫画家の桂正和に教わったものであったらしい。問うべきは何のためにこれが駄洒落として成立しているかである。それは「蒲団」と「吹っ飛ん」との音の類似ではないだろうか。
 幽霊によって駄洒落を定義するのではないから、いまは駄洒落を考案するという思考の過程は無視しよう。一般化のため、「蒲団」を変形すると「吹っ飛ん」になる、という関係に注目したい。オリジナルとコピーという見方をするわけである。コピーといっても、元と完全に同じではダメで、ある変形が成されなければならない。その際、音の変形といった形式的な変形だけを許し、内容に基づいた変形は認めないものとする。そこで定義。

 駄洒落とは、オリジナルとコピーとの組み合わせである。

 さて、「当たり前田のクラッカー」は駄洒落だろうか。次の駄洒落の分類で、詳しく考えてみたい。




駄洒落の分類
 結論から言えば「当たり前田のクラッカー」は駄洒落である。しかし「蒲団が吹っ飛んだ」式の駄洒落とは様子が違う。私の解釈では、オリジナルがフレーズから消滅しているのである。この点で、駄洒落を分類してみよう。再び定義。

 オリジナルがフレーズ内にある駄洒落を自己完結型の駄洒落と呼び、オリジナルがフレーズ内には存在しない駄洒落をパロディと呼ぶ。

 フレーズ内にコピーが存在しない駄洒落はありえないので、これでよい。
 上の定義から、「アルミ缶の上にある、みかん」というフレーズを考えると、「アルミ缶」がオリジナルであり、「ある、みかん」がそのコピーと解釈でき、これは自己完結型の駄洒落になる。
 「その手は桑名の焼きはまぐり」というフレーズでは「その手は食わない」という常套句の「食わな」がオリジナルであり、「桑名」がそのコピーと解釈でき、パロディに分類される。問題は「焼きはまぐり」であるが、立場上、これは、フレーズを聞く側の人が「桑名」を地名であると特定するために添えられた言葉である、と解釈する。
 「その手は桑名の焼きはまぐり」についてもう少し書く。パロディとして成立しさえすればよいのなら「その手は桑名い」で構わない。面白いかどうかは、駄洒落に関して問題ではないのである。「笑いを括弧に入れてみる」で私が駄洒落を「技法」と呼んだのは、つまりはそういうことだったのだ。「その手は桑名の焼きはまぐり」はパロディであるが、同時に暗喩である。つまり、「その手」=「焼きはまぐり(のようなもの)」という意味が派生する。
 コピーが内容に基づいて変形されていない、という点で駄洒落は普通と別の自由度がある、意味にとらわれない飛躍である。これを駄洒落の強みと考えることもできるだろう。

 パロディではフレーズの受け手にオリジナルがわからないと駄洒落として機能しない。そのため、様々な別の技法と組み合わせられることが多い。暗号でいうところの鍵が問題になる。たとえば「アリが10匹で、ありがとう」は、自己完結型か、パロディか。微妙だが、私の考えによれば、これはパロディである。




駄洒落としての言葉遊び
 みなさん既にご存知の伸しイカの詩歌は、自己完結型の駄洒落としては最小(余分がない)である。これは当初から言いたいことのひとつであった。しかし、それだけではない。ある種の言葉遊びは駄洒落として考えると少し違った見え方をするのではないか、ということについても述べておきたい。敢えて、駄洒落を音の類似に限らなかった理由はここにある。
 例えば回文は、前半をオリジナル、後半をコピーと見ることで、自己完結型の駄洒落と考えることができる。偶数音からなる回文は、「伸しイカの詩歌」と同じく、自己完結型の駄洒落として最小である。
 また、アナグラムという言葉遊びは、文字の順番を並べかえて別の意味を持つ言葉を作るものであるが、本来はオリジナルを隠すのでパロディである。
 いわゆるいろは歌の一般化であるパングラムという言葉遊びは、五十音(実際は四十六文字)のアナグラムだから、もちろんパロディ。
  
 …という具合である。変形の仕方がルールになるので新しい言葉遊びが可能かもしれない。ちなみに暗号は言葉遊びかどうかはともかく、定義から見て明らかにパロディである。ということは駄洒落である。

 だから何だと言われたら、元も子も有馬温泉。



2001.11.14 Joker

言語と人間

人間が過小評価されているということと、言語観が問題だということと、これまでの記事では上手く繋がっていなかった気がする。おそらく言語観が変われば人間観が変わるのだが、さて言語は人間にとって何なのだろうか。

私の妹は障害があって言葉を喋ることができない。おそらく言葉を理解することもできていない。そのせいもあるのだろうか、私は主知主義的な人間観にずっと違和感があった。主知主義という言葉は一昨日知った。知情意(真善美の夫々に対応した能力)の内、知を第一に考える立場のようで、メルロ=ポンティなどは大いにこの主知主義を批判したらしい。メルロ=ポンティはゲシュタルトへの関心も深かったし、両義性とか言っている。どうも私の言いたいこととはニュアンスが違う気もするが、これから色々関係してきそうな人である。

言語分析と言ったとき、どうしてみんな論理学の真似事みたいなことしかやらないのだろうか。文法や品詞の分類も退屈で仕方がない。言語ってそんなものなのか。数学やプログラミング言語のような人工言語は、きっと自然言語とは大きく異なっている。自然言語による人工言語のエミュレートはできても、逆に、人工言語による自然言語のエミュレートはできないのではないかと思う。

コンピュータをモデルにして人間の認知過程を解明できると言えば、それは人間の過小評価である。逆に自然言語を神秘化するのは人間の過大評価であろう。だから、人間は機械だが、コンピュータではない。というのが私の主張である。いまのところ人類は、情報処理機械といえば、コンピュータくらいしか知らないので(私も知らないのだが)、これは仕方がないといえば仕方がない。

主知主義の人たちにとっては、言語は人間に欠かせないアイテムであろう。私が言語の問題を考えるのは、①主知主義を批判するため、②記号成立(⇔文字のゲシュタルト崩壊)の段階を無視すれば、アナログな視覚・聴覚より、デジタルな言語は扱いやすい(客観的に調べやすい)ため、という二点の理由による。

実はいま言葉がみつからないので、仮に主知主義という風に呼んでいるが、これはとりあえずの仮想敵に過ぎない。もっと敵の輪郭をクリアにして行きたい。あるいは、考察の過程で敵など消えてしまっても、明瞭に語るべきことを語れるようになりたい。

購書メモ・読書メモ 4

1 山梨正明/編『講座認知言語学のフロンティア 3 概念化と意味の世界 認知意味論のアプローチ』
2 黒田亘『行為と規範』

を購入した。しかし、この、読む前に書くレビューみたいな形式、なかなかの発見かもしれない。ものぐさな私としては、何事かその本に対して発言するためにはまず読んでからでなければ、というプレッシャーを感じずに済むのでやっていて面白いし、読み終えたあとで、購入時に抱いていた期待を読み返せるのもいい。他の人が読んでどうなのかはよく分からないが。この二冊は3/31に届いた分とほとんど同時に発注したのだが、これが今日時間差で届いたのであった。

1は、認知言語学の大勢を知るために。表紙にルビンの壺が描いてあって本文でゲシュタルトとか言ってるし、主体化などというキーワードもあるし、これはかなり私の構想に抵触するのではないかと一瞬身構えた。しかしながら、つまみ読みした限りでは、期待も不安も叶いそうにない。旧言語学の客観性がぼやけたような印象で、具体例は多いものの膝を打つような議論には出会えないのではないか。もっと先にやるべきことがあるでしょうと言いたくなるのだが、もちろん著者らの目的は私と異なっているのであって、これは単なる難癖に過ぎない。とりあえず歴史認識(現代史の知識)を深めるつもりで読んでみたい。

2は、私の買った黒田本第二号である。ここでは取り上げていないが、かつて『経験と言語』という箱入り本を買ったのが第一号だった。著者はウィトゲンシュタイン研究などで知られる哲学者。第一号の方は、なんとなくたじろいで自分の中に敷居ができてしまい、まだ読み始めることすらできていないが、こちらの『行為と規範』数ページ進めた段階ですでに、名著の予感が漂ってきた。これは編者によれば著者黒田亘の没後再編集されたもので、前半が放送大学テキストだったもの、後半がそれを補う三本の黒田論文という構成になっている(論文はテーマ的に近いものを編者が集めたもので、もともとこの形での出版を行う意図は黒田にはなかった)。冒頭、放送大学のテキストだけあって、まことに分かりやすい。読み進める快感がある。
私が行為論に興味を持ったのは「しりとり」の分析をしていたときに「規則に従う」とはどういうことか、という哲学的な問いが芽生えたことがきっかけだった。このとき、web上で文化人類学の浜本満さんが紹介していたアンスコムの行為論を読んで、ガチョーンと目から鱗が落ちて、私はあれこれ考え始めたような気がする。もっと遡れば、柄谷行人の『探求Ⅰ』が最初の一撃だった。柄谷『探求Ⅰ』もウィトゲンシュタイン本。あらためてウィトゲンシュタインは偉大である。