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はじめに

サラリーマンが本を書こうとしています。タイトルは『記号の中の幽霊』といいます。その構想を練るスペースが、このブログです。基本的に私的なメモなので、読者のことはあまり考えていません。

何の本かひとことで言えば、レトリック論の本です。レトリックって何だろう。あの何か人を感動させたり、説得したりするために、言葉を工夫する、技術みたいな奴か。たしかに、一般的にはそう考えられているのですが、この本で私が言いたいことは別のところにあります。

なぜいまレトリックなのか。最近、脳科学や、心の哲学が流行しています。さまざまな方法で、人間とは何かを解明しようとしている。しかし、どうもあちこちで難しい問題にぶつかっているようです。おそらく、これらの問題の背後には何か根本的な間違いがあって、その枠組みの中で、まじめに考えていても解けないのではないか。そして、その根本的な間違いというのは、言語に対する誤解なのではないか。

人間という謎の解明を妨げているであろう、誤解としての言語。これを本の中では「信号言語モデル」と呼んで批判します。そして、そのカウンターとして、レトリックをヒントにした「転換言語モデル」を提出したいと思っている。……のですが、まだどこまで書けるのか、よく分かっていません。

そもそも、最初は駄洒落の研究書を書くつもりでいました。このブログも当初は「片言隻句駄洒落考」「シーソーの上の双子」などと、よく分からないタイトルがついていたものです。それと、オマケですが、買った本を読まずに書評する、というコーナーがあります。なぜ買ったかを書く。なので、内容と違うことも平気で書きますが、気にしないで下さい。読んだ感想は、あまり書きません。

冗談を本気で考えるのが好きです。本の完成がいつになるか分かりませんが、末永くお付き合い頂ければ幸いです。よろしくお願いします。

2009.8.9 みずすまし記

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『ことば遊び大事典』の構想

哲学的な関心もあって、ことば遊びが好きだ。
辞典や事典もいろいろ持っているのだけれど、既存の事典には不満もある。
それでは自分が事典を作るとしたら、どんなふうな事典を作るだろう。
そういう構想を、近々スライドにまとめてみようと思っている。

手始めに文献リストを作ってみた。
ことば遊び関連、持っている本でめぼしいのはこんなところかしら。

荻生待也編著(2007)『図説ことばあそび遊辞苑』遊子館.
鈴木棠三(1981)『新版ことば遊び辞典』東京堂出版.
郡司利男(1984)『ことば遊び12講』大修館書店.
オーガード,トニー(1991)『英語ことば遊び事典』(新倉俊一他訳)大修館書店.
柳瀬尚紀(1998)『英語遊び』(河出文庫)河出書房新社
山本昌弘(1985)『漢字遊び』(講談社現代新書783)講談社.

鈴木棠三(1979)『日本語のしゃれ』(講談社学術文庫445)講談社.
織田正吉(1983)『ジョークとトリック-頭を柔かくする発想-』(講談社現代新書706)講談社.
織田正吉(1986)『ことば遊びコレクション』(講談社現代新書808)講談社.
織田正吉(1986)『笑いとユーモア』(ちくま文庫)筑摩書房.
織田正吉(2013)『笑のこころユーモアのセンス』(岩波現代文庫)岩波書店.

ガードナー,マーティン(1998)『ルイス・キャロル遊びの宇宙』(門馬義幸他訳)白揚社.
松島征編(1991)『風の薔薇5』書肆風の薔薇
リア,エドワード(2003)『完訳ナンセンスの絵本』(柳瀬尚紀訳)(岩波文庫)岩波書店.
鳥越信(2005)『子どもの替え歌傑作集』(平凡社ライブラリー532)平凡社.
ほぼ日刊イトイ新聞編(2005)『言いまつがい』糸井重里監修(新潮文庫)新潮社.

とりあえず、今日はここまで。

私の履歴書

言葉や人間のことが気になっているのだけれど、もともとは理系である。議論そのものよりも、誰がその主張をしているかが気になることがある。簡単に自己紹介しておきたい。

幼稚園のときの夢は博士になること。折り紙が趣味だった。小学5年で読書クラブに所属。SFばかり読んでいた。中学生のとき、NHKスペシャル『アインシュタインロマン』を観て物理学に憧れた。

高校時代は講談社ブルーバックスをよく読んだ。課外クラブでは科学部に所属。顧問の先生は、物理学の新理論をつくるという野望を持っていた。高校2年のとき、先生はマレーシアに行ってしまったので、実際に教わったのは1年間だけだったが、いまだに親交が続いている。大道芸人にして数学者、ピーター・フランクル氏の影響と、吉永良正『ゲーデル・不完全性定理』を読んだことの影響とで、数学科に進学。

大学時代は自堕落の限りを尽くした。英語の単位が取れなくて、学部に6年在籍。その上で大学院に進学、修士課程前期2年で修了、後期1年で中退ということで、大学に9年間いた計算になる。いちおう当時は数学をやっていて、専攻は幾何学。ジェネラルトポロジー。テーマとしては、フラクタル関係の研究をしていた。本を読む時間はたくさんあった。小説では、星新一、筒井康隆、安部公房。哲学・思想関係では、いわゆるニューアカデミズムにかぶれた。何度も読んだ本は、柄谷行人『探究Ⅰ・Ⅱ』、岸田秀『ものぐさ精神分析』、レイモンド・スマリヤン『哲学ファンタジー』、シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』など。

素材メーカーに就職後は、文化ギャップに苦しんだ。いわゆるビジネス文書や、口頭での報告における頭括式に、長い間馴れなかった。技術部門に配属、6年間コンピュータ・シミュレーション担当。東京に転勤となり、営業を2年経験。いまは広報の仕事をしている。

駄洒落の研究をしようと思い立ったのは大学時代、2~3年生のころだったと思う。最初は、筒井康隆の『文学部唯野教授』や、大江健三郎がよく言うロシアフォルマリスムの影響で、詩論や小説作法や文学理論のようなものを構想していた。その後、何度か駄洒落研究のマイブームが訪れて、ファミレスに本やノートを持ち込んで、何時間も粘った。ああでもないこうでもないと悶々としている内、いつの間にか構想が当初のものから変化してきたようだ。

私には妹がふたりいる。上の妹は脳に障害がある。言葉は分からない。

そんなこんなが、今のこのブログでの議論に繋がっている。息の長い話だけれど、本人は、まったく焦っていないので、私の議論につき合おうという人は、よくよく気を付けた方がよいと思う。

ブログタイトル変更

ブログのタイトルを「転換言語論 記号の中の幽霊」から「みずすましの哲学ノート」に変更しました。

今後とも、よろしくお願いいたします。

言語にとって主体とは何か

主体や自由意志と、決定論的世界観(宇宙の初めから終わりまで物理法則が決定しているという世界観)は食い合わせである。両立が難しい。しかし、できれば、自然学が主体とは何かをきちんと理解できた方がよい。

ところで、なぜ私は主体にこだわっているのだろうか。それが今回の議論の主題である。

言語にとって主体とは何か。言葉があるとすれば、それを喋った人か、あるいは書いた人かがいるはずである。つまり、言葉の存在は、発話や筆記の主体を要請する。

文字を映し出す機械・音声を発する機械について考えてみよう。電光掲示板の映し出す文字、ラジカセの発する音声から、読む側・聞く側(受信者側)はメッセージを読み取る訳だが、この場合、電光掲示板やラジカセは、ただの媒介(メディア)である。受信者は、電光掲示板の向こう、ラジカセの向こうにいるはずの発信者を信頼しているのであって、電光掲示板そのもの、ラジカセそのものを主体だと誤解しているわけではない。少し複雑なものとしてカーナビを考えてみる。カーナビは目的地までの音声案内全体が予め個別に企画されている訳ではない。けれども、それを言葉として理解し、受け止めてよいのは、カーナビ設計者への信頼が背景にあるからであろう。その意味では、カーナビもメディアの一変形にすぎない。

次に、人間の発話について考えてみよう。物体から音声が出る点は、ラジカセと一緒である。ところが、たとえば佐藤さんが「悲しかった」と言えば、それは佐藤さんが悲しかったのであって、佐藤さんの向こうにいる何者かが悲しかった訳ではない。佐藤さんはメディアではなくて、主体なのだと見なされなければならない。さもないと、佐藤さんが腹を立てても文句は言えないであろう。

最後に、主体が発信しなかったものが言葉になり得るかどうか考えてみよう。たとえば、神々の声をきく巫女。星々の瞬き・風の歌・樹皮の皺から精霊のメッセージを読み取ろうとする老人。暗号解読せよと軍から強制された出鱈目な数字列を、必死で読み解こうとする数学者。雑踏で聞いた空耳に絶望し、自殺してしまう少年。……極端な話ばかりのようだが、どうもこれらのケースでは聞く側・読む側(受信者側)に問題があるように感じられる。これらの受信者が何か(架空の発信者の)代弁をするとして、おそらく全幅の信頼を置く訳にはいかない。ここにおける発話や筆記の主体は、おそらく彼ら自身と見なされなければならないであろう。仮に彼らが自らをメディアにすぎないと主張し、我々の解釈を承服しないであろうとしても。

そういう訳で、やはり言葉には(発話や筆記の)主体が必要であるらしい。人文学の基盤を失ってよいなら、主体など放棄しても構わないのだが、そういう訳にもいくまい。これが私の主体にこだわる理由である。

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蛇足になるが、じつは主体か否かは対象の性質ではない。記述の問題である。自然学は対象の性質を明らかにするものであろうから、直接に主体の解明をする訳には行かないであろう。では、何を解明すべきなのか。それは、生物学・医学がこれまでやってきたことの延長。人間がどんな機械なのか、ということに尽きると思う。