FC2ブログ

カテゴリ:未分類 の記事一覧

幽霊について

そういえば、このブログのタイトル『記号の中の幽霊』の「幽霊」のことを何も書いていなかった。なぜ幽霊なのか。幽霊とは何か。解説のため、むかし書いたエッセイを引用しておこう。

*****************************
馬の卵


卵が先か鶏が先かというアポリアがある。
これは生物学ではなく言葉の定義の問題である。鶏の卵とは何か。
鶏が産んだ卵のことを指すのならば、鶏が先でなければならない。
鶏が生れる卵のことを指すのならば、卵が先でなければならない。

加藤さんが街で志村さんを見かけ声をかけたら別人だった。
別人と気づくまでのあいだ、加藤さんは誰を見ていたのか。
その場に存在しないものでも、条件さえ揃えば見えることがある。
これをおばけを見ると言う。

ここに、鼻先にニンジンを糸でぶら下げられた馬がいるとしよう。
追いつけばあれを食えると思って馬が走るのであれば、かの馬は、
ニンジンを見てるつもりでニンジンのおばけを見ているのである。

はじめの卵と鶏の話では、鶏の卵のおばけが暗躍していたわけだ。
たぶん、あんなのをお祓いと言うのだろうと思う。

見えるもの必ずしも存在しない。
しかし、見えるものは僕を怖がらせたり、僕を駆り立てたりする。
もしかすると、存在しないものの方が影響力が大きいこともある。

飛んで火に入る夏の虫は、一体何を見ているのだろうか。

*****************************

という訳で、私は疑似問題のことを幽霊と呼ぼうとしていた。たとえば、自由意志と決定論の哲学的アポリアも、疑似問題であり、それは言語に対する誤解に由来する。そんな風に私は考えている。

ちなみに、卵と鶏のくだりは、私独自の解釈ではなく、誰かの受け売りである(養老孟司だと記憶しているのだが、調べても見つからなかった)。それを「おばけ」と表現したのは私の独創かもしれないけれど。

ところで、幽霊については、私の中で、ふたつのエッセイが鳴り響いている。安部公房と小林秀雄だ。

安部公房は「枯れ尾花の時代」というエッセイで「幽霊の正体見たり枯れ尾花」は誤りで、枯れ尾花は幽霊の正体ではないと指摘した。うろ覚えだが、樹氷が幽霊だとすれば「枯れ尾花は樹氷の芯にすぎない」。幽霊の正体は「歴史や文化…が絡まりあったもっと複雑なもの」というのが安部の主張である。これは、幽霊に対する私の考え方の基礎を成している。

小林秀雄は『考えるヒント』シリーズのどれかに、幽霊についての話があった。幽霊はいるかいないかの討論に、幽霊は存在すると主張する婦人が登場する。戦死した主人が夢枕に立った。だから、幽霊はいると。ある歯科医がこれを反駁する。夫が戦死して夢枕に現れない例の方が多い。彼らはなぜ妻のもとへ現れないのか。ここで、小林秀雄は、歯科医の態度を非難する。主人が夢枕に立ったことは、夫人にとって重大な、深い意味のあることだ。それを他人が無責任に批判するのは、科学の名を借りた暴力だと。

どちらも読み返さずに書いたので一部創作になっているかもしれないが、大方そのような方向の話だったと私は記憶している。正しいのは安部公房だが、小林秀雄にも一理ある。そして、人文の科学を立てようと考えるとき、幽霊に対する態度決定は、非常に重要な試金石となる。そんな風に私には感じられるのだ。

記号の中に幽霊はいる。それを暴くことが誰かを傷つけるかもしれない。でも、いつまでも旦那の幽霊にとらわれていては、時計は止まったままではないだろうか。幽霊の正体は、いちど、きちんと明らかにする必要がある。

ブログデザイン更新

デザインを改めました。約2年間、ブログを放置してしまいました。

件の彼女とは結婚し、いまや妊娠3か月。

2013年は公私とも忙しい年になりそうですが、ここもたまには更新したいと思います。

ひとつ、よろしくお願いいたします。

渡辺慧

春に彼女ができたせいで更新をずいぶんさぼってしまった。ここにのろけを書いても仕方がなかったからである。

今日ぼんやり筒井康隆『みだれ撃ち涜書ノート』という書評集を読み返していて、渡辺慧『認識とパタン』の項に目がとまった。むかし読んだときは気にとめなかったが、いまはずいぶん認知科学系の資料が手元にある。もしかして持っているのではないか。書棚を調べると、いつだか大人買いした認知科学選書シリーズの第8巻が渡辺慧『知るということ-認識学序説』だった(『認識とパタン』は見つからなかった。たぶん持っていないのであろう)。

いま、はしがきを読んだところだが、気に入った。友達になれそうな気がするなあと、Wikipediaを調べたら、既に鬼籍に入って居られた。この渡辺慧『知るということ-認識学序説』、扉ページに「哲学者渡辺元に感謝をもって」とある。渡辺元とは誰か、渡辺慧の息子だった。息子に謝辞とは素敵だな。

トイレで読む本はしばらくこれにしよう。

文法の自然化とレトリックの自然化

構想。焦点をどこに結ぶか。

チョムスキーの生成文法は、文法を自然化したのかもしれない。ここで自然化というのは物理への還元、くらいの意味だ。べつにチョムスキーのおかげでコンピューターができた訳ではないけれど、記号処理とか、情報とかは、既に物理的なハードであるところの、コンピューターに乗っている。文法現象については、こんな古典的なコンピューターモデルで、ある程度の記述ができた。つまり大雑把に言えば自然化できたのである。逆に言えば、文法なんてのは、その程度の現象なのだと考えることもできる。

分からないのは、意識だの、認知だのという現象は、コンピューターをどうひっくり返しても出てきそうにないところだ。チョムスキーについて詳しくないのだが、もちろん問題意識が違うなら、べつにそんなの説明する責任はチョムスキーにはない。

レイコフ以降の認知言語学は、比喩の理解など言語の認知的側面について、さまざまなメンタルモデルを提出した。しかし、これが、何らかの、物理的なハードウェアの上で、うまく実現されたという話は、寡聞にして知らない。たぶん、こちらは自然化するためにモデルを考えていたのではなくて、また何か違った問題意識に基づいての研究だったのだろう。

私はレトリックの認知を自然化したい。それにはおそらく単なるチューリングマシンでは不足で、ひとひねり加わった別の物理モデルが必要になる。それが出来たなら、言語も人間も、今までとは、まったく違ったふうに見えるだろう。

なぜレトリックなのか。先見性を私ごときが称えたところでレイコフが喜ぶとは思えないが、レトリックは、文法やコンピューターモデルによる説明の網目が取り逃がした魚である。魚が大きいか小さいか。別の網で捕まえてみないことには、分かるまい。それが私の言わんとする、レトリックの自然化である。

別の項目で書いたことのくり返しになるが、レトリックは私の考えでは記号に対するアスペクト転換である。そして、コネクショニズムについて考察してみると、アスペクト転換はチューリングマシンに乗らないのではないかという気がしてくる。私にはこれがレトリックの可能性の中心である。

新年

しばらく更新しなかったので、広告消しに何か書こう。

本は相変わらず買っていて、ホンゲル係数が大変なことになっている。
とくに大きな買い物は神保町で見つけた認知科学選書24巻セット、2万円。
なかなか読めていないが、パラパラ見るに
実験心理学上の色々な事実などが、勝手な思い込みを正してくれそうだ。

さいきん、カラオケ熱が再燃している。ひとりでカラオケに行って録音する。
ずいぶん下手になった。リハビリである。
私の宴会芸の極致がDAM★ともで聴ける(リンクから飛べる)。
それから、mixiさだまさしコミュニティのカラオケ・オフ会にも参加する。
今日はその選曲に二時間くらい掛けた。
明日は会社の駅伝大会のための試走会。
駅伝にしろカラオケにしろ、こういう肉体を伴うことは、
思い通りにいかないのが絶望的に身にしみるので、そこが面白いといえば面白い。
今日はじめてジャージを買って練習したが苦しい、明日が私の命日かもしれない。

本の構想。いろいろ迷っている。結局、何を目標に置くかなのだ。
ひとつの選択肢としては、
アスペクト転換のモデル化には非チューリングマシンを必要とする
という予想を焦点にして、その前後を埋めるという路線が考えられる。

なぜアスペクト転換なのか。
どうしてアスペクト転換だと思ったのか、そしてそれは何になるのか。

この立場から考えれば、科学哲学だの、文芸理論だのは、結局、
アスペクト転換がなぜ重要なのかを訴えるための、材料にすぎない。
もし、記号に対してアスペクト転換できるという意味で
人間が特殊な存在だとすると、いろんな真面目なオハナシがひっくり返る。
これが重要でなくて何であろう。

ずいぶんすっきりするが、
この図式と私の言いたいことは、本当に一致しているだろうか。
まだまだ、きちんと書けそうな気がしない。帯に短し襷に長し。
毎日のように、ああだこうだ、うだうだと考えている。