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はじめに

サラリーマンが本を書こうとしています。タイトルは『記号の中の幽霊』といいます。その構想を練るスペースが、このブログです。基本的に私的なメモなので、読者のことはあまり考えていません。

何の本かひとことで言えば、レトリック論の本です。レトリックって何だろう。あの何か人を感動させたり、説得したりするために、言葉を工夫する、技術みたいな奴か。たしかに、一般的にはそう考えられているのですが、この本で私が言いたいことは別のところにあります。

なぜいまレトリックなのか。最近、脳科学や、心の哲学が流行しています。さまざまな方法で、人間とは何かを解明しようとしている。しかし、どうもあちこちで難しい問題にぶつかっているようです。おそらく、これらの問題の背後には何か根本的な間違いがあって、その枠組みの中で、まじめに考えていても解けないのではないか。そして、その根本的な間違いというのは、言語に対する誤解なのではないか。

人間という謎の解明を妨げているであろう、誤解としての言語。これを本の中では「信号言語モデル」と呼んで批判します。そして、そのカウンターとして、レトリックをヒントにした「転換言語モデル」を提出したいと思っている。……のですが、まだどこまで書けるのか、よく分かっていません。

そもそも、最初は駄洒落の研究書を書くつもりでいました。このブログも当初は「片言隻句駄洒落考」「シーソーの上の双子」などと、よく分からないタイトルがついていたものです。それと、オマケですが、買った本を読まずに書評する、というコーナーがあります。なぜ買ったかを書く。なので、内容と違うことも平気で書きますが、気にしないで下さい。読んだ感想は、あまり書きません。

冗談を本気で考えるのが好きです。本の完成がいつになるか分かりませんが、末永くお付き合い頂ければ幸いです。よろしくお願いします。

2009.8.9 みずすまし記

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『ことば遊び大事典』の構想

哲学的な関心もあって、ことば遊びが好きだ。
辞典や事典もいろいろ持っているのだけれど、既存の事典には不満もある。
それでは自分が事典を作るとしたら、どんなふうな事典を作るだろう。
そういう構想を、近々スライドにまとめてみようと思っている。

手始めに文献リストを作ってみた。
ことば遊び関連、持っている本でめぼしいのはこんなところかしら。

荻生待也編著(2007)『図説ことばあそび遊辞苑』遊子館.
鈴木棠三(1981)『新版ことば遊び辞典』東京堂出版.
郡司利男(1984)『ことば遊び12講』大修館書店.
オーガード,トニー(1991)『英語ことば遊び事典』(新倉俊一他訳)大修館書店.
柳瀬尚紀(1998)『英語遊び』(河出文庫)河出書房新社
山本昌弘(1985)『漢字遊び』(講談社現代新書783)講談社.

鈴木棠三(1979)『日本語のしゃれ』(講談社学術文庫445)講談社.
織田正吉(1983)『ジョークとトリック-頭を柔かくする発想-』(講談社現代新書706)講談社.
織田正吉(1986)『ことば遊びコレクション』(講談社現代新書808)講談社.
織田正吉(1986)『笑いとユーモア』(ちくま文庫)筑摩書房.
織田正吉(2013)『笑のこころユーモアのセンス』(岩波現代文庫)岩波書店.

ガードナー,マーティン(1998)『ルイス・キャロル遊びの宇宙』(門馬義幸他訳)白揚社.
松島征編(1991)『風の薔薇5』書肆風の薔薇
リア,エドワード(2003)『完訳ナンセンスの絵本』(柳瀬尚紀訳)(岩波文庫)岩波書店.
鳥越信(2005)『子どもの替え歌傑作集』(平凡社ライブラリー532)平凡社.
ほぼ日刊イトイ新聞編(2005)『言いまつがい』糸井重里監修(新潮文庫)新潮社.

とりあえず、今日はここまで。

私の履歴書

言葉や人間のことが気になっているのだけれど、もともとは理系である。議論そのものよりも、誰がその主張をしているかが気になることがある。簡単に自己紹介しておきたい。

幼稚園のときの夢は博士になること。折り紙が趣味だった。小学5年で読書クラブに所属。SFばかり読んでいた。中学生のとき、NHKスペシャル『アインシュタインロマン』を観て物理学に憧れた。

高校時代は講談社ブルーバックスをよく読んだ。課外クラブでは科学部に所属。顧問の先生は、物理学の新理論をつくるという野望を持っていた。高校2年のとき、先生はマレーシアに行ってしまったので、実際に教わったのは1年間だけだったが、いまだに親交が続いている。大道芸人にして数学者、ピーター・フランクル氏の影響と、吉永良正『ゲーデル・不完全性定理』を読んだことの影響とで、数学科に進学。

大学時代は自堕落の限りを尽くした。英語の単位が取れなくて、学部に6年在籍。その上で大学院に進学、修士課程前期2年で修了、後期1年で中退ということで、大学に9年間いた計算になる。いちおう当時は数学をやっていて、専攻は幾何学。ジェネラルトポロジー。テーマとしては、フラクタル関係の研究をしていた。本を読む時間はたくさんあった。小説では、星新一、筒井康隆、安部公房。哲学・思想関係では、いわゆるニューアカデミズムにかぶれた。何度も読んだ本は、柄谷行人『探究Ⅰ・Ⅱ』、岸田秀『ものぐさ精神分析』、レイモンド・スマリヤン『哲学ファンタジー』、シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』など。

素材メーカーに就職後は、文化ギャップに苦しんだ。いわゆるビジネス文書や、口頭での報告における頭括式に、長い間馴れなかった。技術部門に配属、6年間コンピュータ・シミュレーション担当。東京に転勤となり、営業を2年経験。いまは広報の仕事をしている。

駄洒落の研究をしようと思い立ったのは大学時代、2~3年生のころだったと思う。最初は、筒井康隆の『文学部唯野教授』や、大江健三郎がよく言うロシアフォルマリスムの影響で、詩論や小説作法や文学理論のようなものを構想していた。その後、何度か駄洒落研究のマイブームが訪れて、ファミレスに本やノートを持ち込んで、何時間も粘った。ああでもないこうでもないと悶々としている内、いつの間にか構想が当初のものから変化してきたようだ。

私には妹がふたりいる。上の妹は脳に障害がある。言葉は分からない。

そんなこんなが、今のこのブログでの議論に繋がっている。息の長い話だけれど、本人は、まったく焦っていないので、私の議論につき合おうという人は、よくよく気を付けた方がよいと思う。

ブログタイトル変更

ブログのタイトルを「転換言語論 記号の中の幽霊」から「みずすましの哲学ノート」に変更しました。

今後とも、よろしくお願いいたします。

言語にとって主体とは何か

主体や自由意志と、決定論的世界観(宇宙の初めから終わりまで物理法則が決定しているという世界観)は食い合わせである。両立が難しい。しかし、できれば、自然学が主体とは何かをきちんと理解できた方がよい。

ところで、なぜ私は主体にこだわっているのだろうか。それが今回の議論の主題である。

言語にとって主体とは何か。言葉があるとすれば、それを喋った人か、あるいは書いた人かがいるはずである。つまり、言葉の存在は、発話や筆記の主体を要請する。

文字を映し出す機械・音声を発する機械について考えてみよう。電光掲示板の映し出す文字、ラジカセの発する音声から、読む側・聞く側(受信者側)はメッセージを読み取る訳だが、この場合、電光掲示板やラジカセは、ただの媒介(メディア)である。受信者は、電光掲示板の向こう、ラジカセの向こうにいるはずの発信者を信頼しているのであって、電光掲示板そのもの、ラジカセそのものを主体だと誤解しているわけではない。少し複雑なものとしてカーナビを考えてみる。カーナビは目的地までの音声案内全体が予め個別に企画されている訳ではない。けれども、それを言葉として理解し、受け止めてよいのは、カーナビ設計者への信頼が背景にあるからであろう。その意味では、カーナビもメディアの一変形にすぎない。

次に、人間の発話について考えてみよう。物体から音声が出る点は、ラジカセと一緒である。ところが、たとえば佐藤さんが「悲しかった」と言えば、それは佐藤さんが悲しかったのであって、佐藤さんの向こうにいる何者かが悲しかった訳ではない。佐藤さんはメディアではなくて、主体なのだと見なされなければならない。さもないと、佐藤さんが腹を立てても文句は言えないであろう。

最後に、主体が発信しなかったものが言葉になり得るかどうか考えてみよう。たとえば、神々の声をきく巫女。星々の瞬き・風の歌・樹皮の皺から精霊のメッセージを読み取ろうとする老人。暗号解読せよと軍から強制された出鱈目な数字列を、必死で読み解こうとする数学者。雑踏で聞いた空耳に絶望し、自殺してしまう少年。……極端な話ばかりのようだが、どうもこれらのケースでは聞く側・読む側(受信者側)に問題があるように感じられる。これらの受信者が何か(架空の発信者の)代弁をするとして、おそらく全幅の信頼を置く訳にはいかない。ここにおける発話や筆記の主体は、おそらく彼ら自身と見なされなければならないであろう。仮に彼らが自らをメディアにすぎないと主張し、我々の解釈を承服しないであろうとしても。

そういう訳で、やはり言葉には(発話や筆記の)主体が必要であるらしい。人文学の基盤を失ってよいなら、主体など放棄しても構わないのだが、そういう訳にもいくまい。これが私の主体にこだわる理由である。

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蛇足になるが、じつは主体か否かは対象の性質ではない。記述の問題である。自然学は対象の性質を明らかにするものであろうから、直接に主体の解明をする訳には行かないであろう。では、何を解明すべきなのか。それは、生物学・医学がこれまでやってきたことの延長。人間がどんな機械なのか、ということに尽きると思う。

幽霊について

そういえば、このブログのタイトル『記号の中の幽霊』の「幽霊」のことを何も書いていなかった。なぜ幽霊なのか。幽霊とは何か。解説のため、むかし書いたエッセイを引用しておこう。

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馬の卵


卵が先か鶏が先かというアポリアがある。
これは生物学ではなく言葉の定義の問題である。鶏の卵とは何か。
鶏が産んだ卵のことを指すのならば、鶏が先でなければならない。
鶏が生れる卵のことを指すのならば、卵が先でなければならない。

加藤さんが街で志村さんを見かけ声をかけたら別人だった。
別人と気づくまでのあいだ、加藤さんは誰を見ていたのか。
その場に存在しないものでも、条件さえ揃えば見えることがある。
これをおばけを見ると言う。

ここに、鼻先にニンジンを糸でぶら下げられた馬がいるとしよう。
追いつけばあれを食えると思って馬が走るのであれば、かの馬は、
ニンジンを見てるつもりでニンジンのおばけを見ているのである。

はじめの卵と鶏の話では、鶏の卵のおばけが暗躍していたわけだ。
たぶん、あんなのをお祓いと言うのだろうと思う。

見えるもの必ずしも存在しない。
しかし、見えるものは僕を怖がらせたり、僕を駆り立てたりする。
もしかすると、存在しないものの方が影響力が大きいこともある。

飛んで火に入る夏の虫は、一体何を見ているのだろうか。

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という訳で、私は疑似問題のことを幽霊と呼ぼうとしていた。たとえば、自由意志と決定論の哲学的アポリアも、疑似問題であり、それは言語に対する誤解に由来する。そんな風に私は考えている。

ちなみに、卵と鶏のくだりは、私独自の解釈ではなく、誰かの受け売りである(養老孟司だと記憶しているのだが、調べても見つからなかった)。それを「おばけ」と表現したのは私の独創かもしれないけれど。

ところで、幽霊については、私の中で、ふたつのエッセイが鳴り響いている。安部公房と小林秀雄だ。

安部公房は「枯れ尾花の時代」というエッセイで「幽霊の正体見たり枯れ尾花」は誤りで、枯れ尾花は幽霊の正体ではないと指摘した。うろ覚えだが、樹氷が幽霊だとすれば「枯れ尾花は樹氷の芯にすぎない」。幽霊の正体は「歴史や文化…が絡まりあったもっと複雑なもの」というのが安部の主張である。これは、幽霊に対する私の考え方の基礎を成している。

小林秀雄は『考えるヒント』シリーズのどれかに、幽霊についての話があった。幽霊はいるかいないかの討論に、幽霊は存在すると主張する婦人が登場する。戦死した主人が夢枕に立った。だから、幽霊はいると。ある歯科医がこれを反駁する。夫が戦死して夢枕に現れない例の方が多い。彼らはなぜ妻のもとへ現れないのか。ここで、小林秀雄は、歯科医の態度を非難する。主人が夢枕に立ったことは、夫人にとって重大な、深い意味のあることだ。それを他人が無責任に批判するのは、科学の名を借りた暴力だと。

どちらも読み返さずに書いたので一部創作になっているかもしれないが、大方そのような方向の話だったと私は記憶している。正しいのは安部公房だが、小林秀雄にも一理ある。そして、人文の科学を立てようと考えるとき、幽霊に対する態度決定は、非常に重要な試金石となる。そんな風に私には感じられるのだ。

記号の中に幽霊はいる。それを暴くことが誰かを傷つけるかもしれない。でも、いつまでも旦那の幽霊にとらわれていては、時計は止まったままではないだろうか。幽霊の正体は、いちど、きちんと明らかにする必要がある。

ブログデザイン更新

デザインを改めました。約2年間、ブログを放置してしまいました。

件の彼女とは結婚し、いまや妊娠3か月。

2013年は公私とも忙しい年になりそうですが、ここもたまには更新したいと思います。

ひとつ、よろしくお願いいたします。

渡辺慧

春に彼女ができたせいで更新をずいぶんさぼってしまった。ここにのろけを書いても仕方がなかったからである。

今日ぼんやり筒井康隆『みだれ撃ち涜書ノート』という書評集を読み返していて、渡辺慧『認識とパタン』の項に目がとまった。むかし読んだときは気にとめなかったが、いまはずいぶん認知科学系の資料が手元にある。もしかして持っているのではないか。書棚を調べると、いつだか大人買いした認知科学選書シリーズの第8巻が渡辺慧『知るということ-認識学序説』だった(『認識とパタン』は見つからなかった。たぶん持っていないのであろう)。

いま、はしがきを読んだところだが、気に入った。友達になれそうな気がするなあと、Wikipediaを調べたら、既に鬼籍に入って居られた。この渡辺慧『知るということ-認識学序説』、扉ページに「哲学者渡辺元に感謝をもって」とある。渡辺元とは誰か、渡辺慧の息子だった。息子に謝辞とは素敵だな。

トイレで読む本はしばらくこれにしよう。

文法の自然化とレトリックの自然化

構想。焦点をどこに結ぶか。

チョムスキーの生成文法は、文法を自然化したのかもしれない。ここで自然化というのは物理への還元、くらいの意味だ。べつにチョムスキーのおかげでコンピューターができた訳ではないけれど、記号処理とか、情報とかは、既に物理的なハードであるところの、コンピューターに乗っている。文法現象については、こんな古典的なコンピューターモデルで、ある程度の記述ができた。つまり大雑把に言えば自然化できたのである。逆に言えば、文法なんてのは、その程度の現象なのだと考えることもできる。

分からないのは、意識だの、認知だのという現象は、コンピューターをどうひっくり返しても出てきそうにないところだ。チョムスキーについて詳しくないのだが、もちろん問題意識が違うなら、べつにそんなの説明する責任はチョムスキーにはない。

レイコフ以降の認知言語学は、比喩の理解など言語の認知的側面について、さまざまなメンタルモデルを提出した。しかし、これが、何らかの、物理的なハードウェアの上で、うまく実現されたという話は、寡聞にして知らない。たぶん、こちらは自然化するためにモデルを考えていたのではなくて、また何か違った問題意識に基づいての研究だったのだろう。

私はレトリックの認知を自然化したい。それにはおそらく単なるチューリングマシンでは不足で、ひとひねり加わった別の物理モデルが必要になる。それが出来たなら、言語も人間も、今までとは、まったく違ったふうに見えるだろう。

なぜレトリックなのか。先見性を私ごときが称えたところでレイコフが喜ぶとは思えないが、レトリックは、文法やコンピューターモデルによる説明の網目が取り逃がした魚である。魚が大きいか小さいか。別の網で捕まえてみないことには、分かるまい。それが私の言わんとする、レトリックの自然化である。

別の項目で書いたことのくり返しになるが、レトリックは私の考えでは記号に対するアスペクト転換である。そして、コネクショニズムについて考察してみると、アスペクト転換はチューリングマシンに乗らないのではないかという気がしてくる。私にはこれがレトリックの可能性の中心である。

新年

しばらく更新しなかったので、広告消しに何か書こう。

本は相変わらず買っていて、ホンゲル係数が大変なことになっている。
とくに大きな買い物は神保町で見つけた認知科学選書24巻セット、2万円。
なかなか読めていないが、パラパラ見るに
実験心理学上の色々な事実などが、勝手な思い込みを正してくれそうだ。

さいきん、カラオケ熱が再燃している。ひとりでカラオケに行って録音する。
ずいぶん下手になった。リハビリである。
私の宴会芸の極致がDAM★ともで聴ける(リンクから飛べる)。
それから、mixiさだまさしコミュニティのカラオケ・オフ会にも参加する。
今日はその選曲に二時間くらい掛けた。
明日は会社の駅伝大会のための試走会。
駅伝にしろカラオケにしろ、こういう肉体を伴うことは、
思い通りにいかないのが絶望的に身にしみるので、そこが面白いといえば面白い。
今日はじめてジャージを買って練習したが苦しい、明日が私の命日かもしれない。

本の構想。いろいろ迷っている。結局、何を目標に置くかなのだ。
ひとつの選択肢としては、
アスペクト転換のモデル化には非チューリングマシンを必要とする
という予想を焦点にして、その前後を埋めるという路線が考えられる。

なぜアスペクト転換なのか。
どうしてアスペクト転換だと思ったのか、そしてそれは何になるのか。

この立場から考えれば、科学哲学だの、文芸理論だのは、結局、
アスペクト転換がなぜ重要なのかを訴えるための、材料にすぎない。
もし、記号に対してアスペクト転換できるという意味で
人間が特殊な存在だとすると、いろんな真面目なオハナシがひっくり返る。
これが重要でなくて何であろう。

ずいぶんすっきりするが、
この図式と私の言いたいことは、本当に一致しているだろうか。
まだまだ、きちんと書けそうな気がしない。帯に短し襷に長し。
毎日のように、ああだこうだ、うだうだと考えている。

哲学とたとえば文学のつながり

フレーゲ言語哲学。ソシュール構造言語学。チョムスキー生成文法。レイコフ認知言語学。これらを乗り越えること。たとえば、これら従来理論に対して信号言語と計算言語というくくり方をしてみた。これはどんな前提への批判なのだろうか。そしてこの批判はどこに根を持つものなのだろうか。

ひとつは誰もいない映画館の不思議。どうして宇宙は誰もいない映画館ではないのだろう。これは要するに、主体概念の謎である。私の見立てでは言語こそがその鍵なのだが、今のところどの路線に乗っても謎は解けそうにない。これは前提が悪いのであろう、というのが、まず根本にある。
もうひとつは、各言語理論が、たとえば文学現象の記述に向いていないように思われるところだ。言葉は文学の素材なのに誰もそんなことを言わない(少なくとも周縁領域でしかない)のが不思議だ。言語理論の対象と文学の言葉は別物なのだろうか。この路線でいちばん方向性の近いのは、レイコフの認知言語学かもしれない。

各言語理論はそれぞれに特有の人間観、たぶんある種理想化された人間観とセットになっている。フレーゲなら論理的、計算的な人間。ソシュールならラングを担う母体としての通信局的な人間(というと語弊がありそうな気もするが)。チョムスキーなら普遍文法を搭載した、非タブラ=ラサな人間。レイコフのは、まだ不勉強でいまいちうまく焦点を結べていないが、まあ、いろいろと認知機能に仮定の入った人間であることは確かだ。
なぜこのような理想化が行われるのか。理想化しないで、いろいろあるねでは、理屈にならないからである。

いちばんうまく行ったときのことを考える。巨人達の大伽藍といえど、いくつかの前提からスタートしている。批判は土台に加えれば充分だ。しかし、枯れ木と共に果実を捨てていいものかどうか。たとえば皮をむいていくと玉ねぎはなくなってしまう。あとは涙がでるばかり、では困る。

転換への還元。たとえば、フレーゲの計算を、ソシュールの構造を、チョムスキーの文法を転換で説明し直す。さらに私に固有かもしれない疑問をも転換の見地から説明してみる。それでこそ、花も実もある新しい理論といえよう。しかし、さて、はたして、そんなにうまく行くのか。

ところで、文学って結局、この文脈において何なのか。一見均衡を欠いた取り合わせのように思える。だが、本質は文学の中に全部入っている。創作・鑑賞・分析。

伝統的な批評はあまりに高尚なもの深遠なものを求めたために科学から乖離した。私が文学作品の分析を通じて取り出したいのは、もっとチープな、どこにでもある、しかしそれなしでは、ほとんど文学が不可能であるような現象=転換なのである。

ここでコンピュータに文学が分かるか、と文句を言ってみてもいい。文学は猿にもコンピュータにも分からない。これが人間の特殊性でなくて何であろうか。なんてことを言えば、それは法律でも政治でも経済でも芸術でも科学でも、何でも同じことではないかと反批判されそうな気もする。まったくその通りであろう。たぶん、これら人文現象はすべて、人間の動物としての特殊性に端を発している。高尚や深遠を期待する人の意に添うわけにはいかないが、ここで私が文学を対象として扱うのは、例として扱いやすいからに過ぎない。


民話分析とユング

初期の構想では、本の分量の半分は、文学系の話題に費やす予定だった。伝統的なテクスト分析とは、少し毛色の違った文学作品なりの分析ができないかと思っていたのである。アスペクト転換と見える箇所をテクストから拾い上げて分析するようなものを思い描いていたのだが(このこと自体は凡庸なアイデアだ)、それと価値、たとえば文学的な価値を短絡させると、いろいろな弊害が起こってくる。この問題の回避が当初私にとって、大きなテーマになっていた。

いま本の構成上、問題になっている部分は少し違っている。最近、非チューリング性とか、主体概念といった、人間の特殊性(と私が勝手に考えているもの)についての話を追いかけている。これはこれで話が中途半端なのだが、たとえそれが完成したとしても、それと文学とに何の関係があるのかよく分からない。つまり、両者の接続が難しくなってきているのである。

どうしたものかと思うが、そこはのんきもののこと。たぶん適当なところでこのふたつの話は繋がってくると楽観しているし、たとえ繋がらなかったとしても構想全体が雲散霧消する訳ではあるまい。まあ、なるようになるであろうと高を括って、あれやこれや考えているような所である。

閑話休題。民話分析とユングである。民話分析といえば、条件反射的にプロップの名前を思い出していた。プロップの分析をアスペクト転換に還元する、あるいは同じことだがプロップの31の類型を、徹底的に相対化するような話を薄ぼんやりと考えていた。駄洒落から比喩へ、比喩から寓喩へ、みたいな連想が働いたのである。今日ふとユングのことを思い出したのは偶然なのだが、ユングはユングでお話の分析が仕事だった。フロイトよりも魔術的な香りのする精神分析である。

私は超自然的なもの、オカルト的なものを、理屈の上、少なくとも本を書く上では極力退けておきたいと思っている。直接ユングの路線に乗るわけにはいかない。しかし、もしかするとユングを、ユング自身思っていなかったような方向で再評価できることがあるかもしれない。ストーリーの分析において、フロイトになくユングにあるような、方法乃至はその萌芽を探すこと。話は飛ぶが、フロイトとダーウィンはおそらく親和的で、それに対する不満が私にはあるのであった。

思いつきにとどまるかもしれないが、下手な鉄砲は数撃つより仕方ない。とりあえずメモとして残しておこう。

非ユークリッド幾何学

検索してみるとEXACT-SCIENCEというブランドだか何だかがあるみたいだが、私はそれについてはよく知らない。でも、私のやりたいのは、きっと、人文系のイグザクト・サイエンスをつくることである。みんな、つい言い過ぎてしまって、過剰に同一性を仮定してしまって、モノローグの自家中毒になってしまっているような気がする。うまい具合にブレーキがひけないものかしら。

飽きもせず10年くらい同じことを考え続けている。それでもまったく焦らないのは私の資質と言えるかもしれない。


2007年10月31日のmixi日記は『幾何学史の精神分析』というタイトルだった。ちょっと補足しつつ引用する。

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月曜日の通勤中に、ふとエッセイのネタを思いついた。平行線公準。ユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学が生まれ、自らの親であるところのユークリッド幾何学を相対化し、両者をリーマン幾何学が統合してしまう歴史を、非ユークリッド幾何学がそのエディプス・コンプレックスを超克する過程と捉えたらどうか。と、そういうアイデアである。

歴史の解釈に精神分析を応用するというのは決して私の独創ではない。岸田秀というおじさんが、たとえば日米問題、日韓問題などを取り上げ分析してみせていた。その真似をするといえば、そうなのだが、たぶん目的が少し違う。扱う対象についても、岸田秀のように国(人の集団)を精神分析するというならまだ理解できるかもしれないのだが、数学体系を擬人化して私はいったい何をしようというのだろうか。

直接は関係ないのだが、これがきちんと書けたなら、いま構想している本のヒントにもなってくれるのではないかと思う。

今日の日記が意味不明であれば、それは私の説明不足のせいです。単に書きたかったのです。ごめんなさい。

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ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学は論理的には等価かもしれないのだが、非ユークリッド幾何学がユークリッド幾何学に先行することは、おそらく歴史的にあり得なかった。そして、ユークリッド幾何学とまるで違う、まったく異次元の体系として、非ユークリッド幾何学がいきなり無から生じた訳でもない。

じつは、ユークリッド幾何学の体系内で、非ユークリッド幾何学のモデルを構築できる。こういうのは、数学でよくやる手だ。知っているものを使って、よく知らないものをうまいこと作ってしまうのだ。無理数はデデキントの切断で正当化されたし、複素数だって、2×2行列を使ってモデル化することができる。モデル化は対象の実在性を問う不毛な議論に幕を引くものだった。

数学史家に言わせればちょっと違うのかもしれないけれど、そんなふうに、私は勝手に思い込んでいる。

何も先をあせることはない。体系の中にいながら、体系の外を書けるということ。これはひとつの希望である。

購書メモ・読書メモ 11

1 内井惣七『ダーウィンの思想 人間と動物のあいだ』
2 フランス・ドゥ・ヴァール『利己的なサル、他人を思いやるサル』
3 ゲアリー・マーカス『脳はあり合わせの材料から生まれた』
4 ジョージ・レイコフ『認知意味論』
5 山梨正明『認知構文論』
6 W.ケーラー『ゲシタルト心理学入門』
7 クロード・E. シャノン『通信の数学的理論』
8 木田元『木田元の最終講義』
9 杉山尚子『行動分析学入門』

かれこれ一ヶ月近く更新していないので、最近買った本・読んだ本の紹介でお茶をにごしたい。これ以外にも相当買い込んでいるが、一気に書くのは面倒なので、またの機会に。

1は、しばらく前に小さな本屋さんで何の気なし手に取った。内井さんの立場がどうだったかあまりよく覚えていないが、細かなエピソードなどいきいきと描かれていて面白かった。ずっと以前になるが、内井さんの著書では他に『うそとパラドックス ゲーデル論理学への道』というのを読んだことがある。バリバリの哲学者なのに、というべきか、だからというべきか、ダーウィン入門としてはマイベストである。

2は、1の中で紹介されていて面白そうだと思って。動物と倫理をどうくっつけるか。私の関心は少しずれていてきっと答えは得られないのだが、豊富な例を楽しみたい。

3は、タイトルに共感を覚えて。まだふたつの章しか読んでいないが、この本の中心概念は「クルージ」らしい。著者によれば「クルージとは技術用語であり、エレガントには程遠く無様であるにもかかわらず、驚くほど効果的な問題解決法」のことだそうである。要するに脳は、冒険野郎マクガイバーの発明品みたいなものだということか。言語もクルージだということで、最初からうまく設計していれば、言葉の多義性の問題なんか起こらずに、もっと伝達がスムーズだったろう。それはそうかもしれないが、そうするとたぶん、人類は誕生しなかったろうと私は思う。

4は、777頁という分厚さにびびって。。とても真面目に読む気がしないが、ゲシュタルト転換の関係するところだけはマークしておきたい。

5は、かなりいい本かもしれない。山梨さんはゲシュタルト転換が好きみたいだ。教科書的で読み進めるのに体力が要るが、案外私など本を書かなくても、こっちできちんとやってくれているのかもしれない。もちろん、ちゃんと読んだら読んだで、いろいろと不満が出てくるに違いないのだが…。

6は、古典。ゲシュタルト心理学の黎明、学になるかならぬか、というすれすれなところが面白い。途中何の話かよく分からなくなったが、とりあえずひととおり読んでおきたい本。

7も、古典。ある意味でシャノンの枠組みが、情報概念を規定している。そこで捨象されたものこそを私は問題にしたい。まだうまく名指せないでいるのは、そもそもの目的が異なるとはいえ、結局、シャノンをよく理解していないからかもしれない。

8は、一気に読んだ。ハイデガーの話とマッハの話。ハイデガーについては、大いなる誤解の末に、西洋哲学史をソクラテス以前の哲学者によって相対化するというところに着地する。これはこれで面白いが、マッハの方が楽しかった。政治から文学に至るまで、いろんな人がマッハの周りにくっついてくる。あれもマッハの影響、これもマッハの影響。単なる物理学者のくせに、すごすぎるぜマッハ。

9は、たぶん苦手な本。読まずに文句を言って悪いが、工学的な人間理解という印象がある。ところで、行動分析学の始祖、スキナーはマッハに影響を受けたのだそうだ。これを8と同じ日に買ったという偶然に驚きたい。

購書メモ・読書メモ 10

野家啓一編『ヒトと人のあいだ』を購入。興味の薄いところをとばしながら、半分くらい読んだ。

野家啓一による「まえがき」。人間観が文理分裂しているという現状把握に共鳴した。結論として提示されているホモ・ナランスはともかく、問題意識としては、ほとんど私の野望に重なっていると思う。

戸田山和久「『知識を自然の中に置く』とはいかなることか」が収録されている。というより、これがあったのでこの本を買ったのだと言ってよい。比較的退屈なテーマを追っているのだが、いつもながら論旨は明快で気持ちがいい。そして、この記述「被験者が内省だけによって『右の方を選んだけど、それは右の方がおいしそうだからではなくて、単に右にあったからだ』という正解に至れるか、私はほとんど無理だと思う」には、ちょっと震えが来た。ここだけをピックアップしても、何のこっちゃかもしれないのだが、これは美しい話なのだ。


購書メモ・読書メモ 9

1 池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』
2 茂木健一郎/田谷文彦『脳とコンピュータはどう違うか』
3 星野力『チューリングを受け継ぐ』
4 郡司ペギオ-幸夫『生きていることの科学』
5 黒川伊保子『恋するコンピュータ』
6 野村雅昭『落語の言語学』
7 織田正吉『ジョークとトリック』

いろいろ買ったり読んだりした。引っ越して通販を使わなくなったので、逆に整理が面倒臭い。ここに挙げたのは、さいきん買った本の一部である。

1は、とりあえず売れているので。ひと通り読んだ。脳が「私」を誤解しているのか「私」が脳を誤解しているのか。最新トピックも豊富でなかなか面白かった。ダーウィン的な生物観に着地するところにだけ、私としては違和感がある。コホーネンの自己組織化マップの紹介は有難かった。

2は、大嫌いな茂木本。だが、このタイトルで私が買わない訳にはいかない。読んでみたら、したたかだった。とくに計算機について、なかなか要領よくまとめてあって感心した。余計なお世話だが、紹介に徹すればよかったのにと思う。まとめがよくもわるくも茂木節で、もったいない。この本ではないが、茂木氏がいまの心の科学の状況を錬金術になぞらえて、錬心術と呼んでいたのは上手かった。なんだかんだ言いながら、所詮、同族憎悪のようなもの。私もまた同じ穴の狢なのであろう。

3の星野さんは、Web上で名前を見かけたことがあった。ちょうど非チューリングマシン(以下、非TM)について考えていたので、その参考に購入。小説風の付録を除いて読み終わった。有名な話だが、チューリングはTMの限界を示していた。そしてドイツ軍のエニグマ暗号を解くために、チューリングボンベと呼ばれる非TMを活用した。天才だなあと思う。計算機科学の、あるいは人工知能の歴史入門としてよくできている。チューリングテストに対する記述も秀逸で、私の理解も少し変わってしまった。が、後半、非TMが単なる神秘発生装置のようになってしまった気がする。「人間-TM=?」の核心がよく分からない。仮説だけでも提示して欲しかった。

4の郡司さんは、いちど見たら忘れられない。ときどき名前を見かけてはいたが、本を読むのはこれが初めて。ちょっと癖のある対話篇で、このノリは身に覚えがある。学生時代の友人同士の怪しい議論がパワーアップしたような本だ。まだはじめの方だが、マテリアルというのがキーワードであろう。「現実-モデル=マテリアル」とでも言えばよいのだろうか。割り切れないところを取り出して、割り切ろうという趣。それはそれで面白いけど、はてさて。ほんとうのところ(現実)は、どうなのだろう。複雑系ショックの延長上にある本と見ていいのかもしれない。

5は、野心に惹かれて。ともすれば智に働きがちな人工知能の話の中で、情に棹さすのは立派である。しかし、大山鳴動して鼠一匹という気がしないでもない。言葉の語感に対する分析が主な話題で、よく見てみたら、あの有名な『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』の著者であった。これこそ私が否定せんとする、旧レトリックの権化ではあるまいか。と、攻撃するのは野暮天であろう。聴覚刺激から発音体感への転換は、著者にとってコロンブスの卵だった。それでよいではないか。1の池谷本に登場する「ブーバ・キキ試験」の謎も、つまりはこのくらいの話なのだと思う。

6は、タイトル買い。あまり期待していないが、枝雀の四分類への言及があるところに感心した。暇なときに読もう。

7は、ぜんぜん期待していなかったのだが、読んでみてたまげた。著者は転換コレクターである(ほめ言葉のつもり)。もちろん、その分析については処世訓めいていて不満もあるのだが、これは博物学的な資料として素晴らしい。やっぱり私はこういう世界が好きなのだよなあと再認識した。


チューリングマシンについて

 人間はコンピュータではない、という主張を明確化するのであれば、チューリングマシンについて考える必要がある。厳密な定式化は忘れたが、何か長いテープに書き込んだり、書き込みを消したりするような、仮想的な機械のことだ。コンピュータが実用化される以前に、アラン・チューリングによって、数学モデルが作られた。

 現在の実用的なコンピュータは基本的にチューリングマシンと同型である。また、万能チューリングマシンというアイデアがある。すべてのチューリングマシンは万能チューリングマシンによって、エミュレート可能なのである。そして、妙な話だが、すべてのチューリングマシンは、万能チューリングマシンである。要は、どんなコンピュータでも無限の記憶媒体さえあれば、別のコンピュータを真似できるということ。こういう訳で、あらゆるアルゴリズム、計算はチューリングマシンに搭載させることができる(そのようなものとして、ここではアルゴリズム、計算なるものを考える、というべきか…)。ここで重要なのは、アルゴリズムが決定論的(入力と出力の関係が一定)だということだ。

 ナイーブな自由意志論者からすれば、アルゴリズムの決定論から自由意志は生じない。人間は自由意志を持つ。ゆえに、人間はコンピュータ(チューリングマシン)などであるはずがない、という話になるのであろう。人間には能動性があるが、コンピュータは単に受動的なだけだ。しかし、これは、私の言葉に翻訳すれば、人間は機械ではないという主張と同等である。それが、物理主義的な立場、決定論的な立場と深刻な相克を生じるのは言うまでもない。

 一方、信号言語モデルに立てば、人間は言葉を使うときに、ただ記号の順列組合せのような、あるいは論理演算のような計算をしているだけである。この立場では人間がコンピュータになってしまうのだが、これは私の考えによれば、言語に対する誤解に基づく。それで私は、人間は機械だが、コンピュータではない、と主張しようとしているのである。

 さて、仮に私の議論で、コネクショニズムの反証が得られたとしよう。人間の精神活動はコネクショニズムでは捉えきれない。しかし尚、人間はコンピュータではない、という主張は立証されない。それは、単にニューラルネットモデルの限界であって、チューリングマシンの限界ではないかもしれないからだ。私の考えでは、言語には、知覚の転換が大きくかかわっている。たとえばルビンの壺の反転のような。これは、とくに能動的な過程ではないが、しかし、チューリングマシンでエミュレートできない。……であろうという予想を、私は立てているのであった。

 転換の何が難しいのだろうか。たとえば、ジャストローのウサギ・アヒル図というのがある。同じ図形があるときはウサギに見え、あるときはアヒルに見える。これは何なのか。ウサギまたはアヒルだろうか。ウサギかつアヒルだろうか。あるいは、ウサギでもアヒルでもないのか。ジャストロー図形において、ウサギとアヒルは、アンドでもオアでもない形で結びつけられている。この意味で、転換は古典論理を超越する可能性を持っているような気がするのだが、まだ今のところ、うまく言葉にできない。難しさの程度もよく分からない。案外簡単なのかもしれない。頭の中のアヒルが絵に投射されたり、頭の中のウサギが絵に投射されたりしている、この感じ。これをチューリングマシンは実現できるのであろうか。

 クオリアをめぐる言説はあまり好きではないが、どうもこのあたりの議論になると話が似てきてしまう。もう少しよく考えてみよう。

購書メモ・読書メモ 8

1 イアン・スチュアート『自然界の秘められたデザイン』
2 エリオット・ソーバー『進化論の射程-生物学の哲学入門』
3 サム・ウィリアムズ『人工知能のパラドックス』
4 グレゴリー・ベイトソン『精神と自然-生きた世界の認識論』
5 ジョン・R・テイラー『認知言語学のための14章』
6 ドナルド・デイヴィドソン『主観的、間主観的、客観的』
7 福岡伸一『世界は分けてもわからない』

を日本橋の丸善で購入した。前回からのブランクにいくつか別の本も読んだが、それはまた別の機会に書こう。

1はI・スチュアートのファンなので。このブログとの関連性は薄いが、期待度は高い。

2は有名みたいなので。意外とこの、生物学の哲学という分野は成熟している。進化論論争が加熱したためか。生物学の哲学全体に「機能」の概念がポイントだと思うが、これはおそらく、完全には自然化できない(できたと思っている人もいるだろうが、私は眉唾で臨む)。機能による課題遂行というとき、その課題(命題)の記述が問題になるに違いないからである。

3は、そういえば人工知能の歴史をよく知らないなと思ったので。冒頭に年表がある。いろいろ重宝しそうだ。

4は、タイトルに惹かれて。ベイトソンという名前はうっすら聞いたことがあったが、Wikipediaによれば1904年生まれらしい。古いのは悪いことではないが、あまり期待するまい。暇なときに読もう。

5は、認知言語学が云々と主張するのなら、とりあえず読んどかねばと思って。帰りの電車でパラパラ眺めた。単義性/多義性の話があったり、両義性/曖昧性の区別があったりした。しかし、我流の用語法と少しかみ合わない。このあたりの用語の問題もあるのだ。どこまで我侭を通すべきか。

6は、宿敵デイヴィドソンの本なので。と、勝手に宿敵扱いしてしまったが、偉い人なのは間違いない。それは飯田隆『言語哲学大全』の構成を考えてもわかる(ちなみに『言語哲学大全』は読んでいない。読むと大変そうなので)。換骨奪胎、まじめに読みたい本。

7は『生物と無生物のあいだ』が面白かったので。ただ、著者が最も主張したいであろうところの「動的平衡」の概念には、あまり魅力を感じていない。タイトル、反分析的という意味では、コネクショニズムに通じるところもあるやもしれぬ。これは牽強付会か。

コネクショニズムとの関係について

人間とは何か。心理学における行動主義から、内面の探求に移行したのは、古典計算主義の功績である。この古典計算主義へのアンチとして、コネクショニズムを挙げることができる(他にもアフォーダンスとか色々流行があるが、とりあえずここでは気にしないことにする)。

用語として、ニューラルネットとコネクショニズムを区別していた方が考えやすい。ともに生物の神経回路網をモデル化した人工的なシステム(人工ニューラルネット、しばしば単にニューラルネットと呼ぶので紛らわしい。コンピュータ内に構築可能)に関連する研究だが、これを区別する場合には、次のように考える。すなわち、①ニューラルネットの研究目的は、人間の脳に負けない能力を持った人工の情報処理システムを作り上げること、であるのに対し、②コネクショニズムの研究目的は、この人工のシステムをモデルにして、人間がいかにものを考えているかを探求すること、にある。すなわち、コネクショニズムとは、ニューラルネットの基本原理こそが人間の行う情報処理の本質だ、という前提に立って人間の認知の仕組みを解明しようとする立場なのである。(ちなみにこの段、戸田山和久他編『心の科学と哲学』からのほぼ引用)

さて、このニューラルネットでは何ができるのか。たとえば、人間の顔の識別などがよく引き合いに出される。本当はもっと高度なことができるのだが、いくつかの写真を見せて学習させておくと、たとえば、かなりの精度で顔か顔でないかの識別、あるいは男女の識別などができる。ただ、神秘化は禁物である。このときニューラルネットが実際には何をしているのか。単に、顔画像の集合に重み付けを行って距離空間とし、その線形分割を行っているに過ぎないのである。顔画像からなる空間はふたつの領域に分割される。男女識別で言えば、男の顔の領域と、女の顔の領域である。それらの領域それぞれの重心は、ニューラルネットが学習した範囲での、典型的な男顔、女顔になる。男女識別に限らず、ニューラルネットによる分類には、このような、典型が生じる。これをプロトタイプと呼ぶ。

ここからが私の話なのだが、ニューラルネットに心霊写真を見せるとどうなるであろうか。あわよくば目、目、鼻、口、で、この写真のここに顔があると思ってくれるかもしれない。でも、それだけである。ははは、木の影が顔の形に見えただけさ。とか、ここで自殺した人の怨念が、写真の中に現れて何かを訴えているのだ、などとは思ってくれない。

ルビンの壺を考えてみてもいい。壺だと思っていた図形が、向き合ったふたりの横顔に変わる。同じ対象が、別のネットワークの中にシフトする。私の考えでは、この、反転、転換が、我々の認知活動に重要な位置を占めているのである。ニューラルネットでは、顔なら顔のゲシュタルトが作れる。しかし、それは別のゲシュタルトに転換する可能性のない、いわば死んだゲシュタルトである。その意味で、私の言いたいことは、単なるコネクショニズムではなく、コネクショニズム+α(転換の仕組み)である。……それでピノキオが人間になれるかどうか(充分条件かどうか)は、わからないけれど。

いま、画像の認知について説明したが、言語についても、この転換は働いている。たとえば、駄洒落ひとつとっても、この転換がなければ、そもそも駄洒落として認知できない。「布団がふっとんだ」の「ふっとん」は、「ふっとぶ」の撥音便であり、また「ふとん」という音の変形(コピー)でもある、というような話である。

東京転勤の準備で

今月更新をしていなかった。広告を消すために何か書こう。

いま読んでいるのは、長尾龍一『法哲学入門』。
いかめしい題名だが、ここ最近読んだ本の中では、いちばん楽しい。
もう、抱腹絶倒と言っていい。
そこかしこふんだんに盛られた冗談がことごとく私のツボにはまって、
たまらなく可笑しい。もったいないのでゆっくり読んでいるところ。

月曜日に東京へ赴任します。

2009/5/27(水)の構成

再構成してみた。これはまだ独りよがりなメモに過ぎないが、多義性とアスペクト知覚を区別することで、レトリックが挟まるための流れはよくなった気がする。


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α まえがき

Ⅰ 言語の中の人間
 1 人間という不思議(主体概念が引き起こすアポリアの提示)
  (1) なぜ宇宙は誰もいない映画館ではないのだろうか
  (2) 決定論と自由意志の問題
  (3) 動物としての人間 - 合理主義的な人間観
  (4) なぜ言語なのか 行為を記述する人間
 2 言語の何が問題なのか
  (1) 合理 表象 etc.
  (2) 自然言語処理
  (3) 言語の一義性モデル(信号モデル)
 3 言語と人間
  (1) 人間の過大評価と過小評価
  (2) 人間の認識にとって多義性とは何か
  (3) 多義性の見本市としてのレトリック (反例の形成・矛盾点の指摘)

Ⅱ レトリック
 1 レトリック概論
  (1) 考察の枠組み
   ① 創作と鑑賞と分析と
   ② レトリック研究の分類
    ・ レトリック1.0 はたらきの分析
    ・ レトリック2.0 かたちの分析
  (2) レトリック研究の歴史
   ① 古代ギリシア
   ② 中世ヨーロッパ
   ③ 近・現代
 2 レトリックのカスタマイズ
  (1) 比喩と駄洒落と擬人法と
  (2) ルビンの壺とウィトゲンシュタイン
  (3) レトリック3.0 アスペクト分析の記号部門

Ⅲ 記号の中の幽霊
 1 言語観の変容
  (1) 言語の起源 (反ダーウィンの言語観)
  (2) レトリック3.0から見た言語
  (3) 既存の言語モデルとの関係
   ① 構造言語学 ソシュール
   ② 生成文法  チョムスキー
   ③ 分析哲学  フレーゲ ~ デビッドソン
   ④ 認知言語学 レイコフ
 2 人間観の変容(認知科学)
  (1) 人間の謎は解けたのか
  (2) 記号の中の幽霊
  (3) アスペクトの物理的な基盤についての仮説
  (4) 人工知能
 3 まとめ

Ω あとがき

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多義性とアスペクトの区別というのは、どういうことか。たとえば、チェスチャンピオンのカスパロフに勝ったチェスプログラム、ディープ・ブルーを考えればいい。チェスゲームにおいて、一手の意味は多義的である。コンピュータも多義性を扱える。ただ、アスペクト知覚ができないだけなのだ。

進んでは戻り、戻っては進む。試行錯誤しか戦略を持たずに、ルービックキューブで遊んでいるみたいだ。あるところまで進んでしまえば、きっとあとは粘土細工と同じことになるのだけれど。

購書メモ・読書メモ 7

1 大津由紀雄/波多野誼余夫『認知科学への招待 心の研究のおもしろさに迫る』
2 大津由紀雄/波多野誼余夫/三宅なほみ『認知科学への招待 2』
3 J.ホップクロフト/R.モトワニ/J.ウルマン『オートマトン 言語理論 計算論 1』
4 米田政明/〔ほか〕『オートマトン・言語理論の基礎』
5 ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー『量子が変える情報の宇宙』
6 現代思想 2007-12『量子力学の最前線-情報・脳・宇宙』
7 島泰三『はだかの起原 不適者は生きのびる』
8 リン・マーギュリス『共生生命体の30億年』
9 F.M.コーンフォード『ソクラテス以前以後』

を購入。

1と2は、認知科学の概説本として。このブログで訳もわからず認知科学、認知科学とわめいているが、本当のところ、どんなことをやっているのか。入門としてある程度網羅的な本みたいなので、現場の雰囲気を知りたくて買ってみた。

3と4は、敵の道具を知らねばならないと思って。このあたりが計算主義的な言語観として最も洗練された部分であろう。ところが、じつはこれらの本は本質的に敵ではないのではないかという気もする。たぶん私の敵視する計算主義とは目的が異なるのである。それにもうひとつ期待があって、こっちの方が買った理由としては大きい。それは、駄洒落の形式変形についての理論がほとんど形式文法の理論に一致するのではないかということ。少なくとも参考にはなるはずである。この類の本は積読になりがちなのだが…。ちなみにオートマトンは、かつてフラクタルをかじった私にとって懐かしい響きの言葉ではある。

5と6は、アスペクトと量子情報の関係について妄想を膨らませるため。量子コンピュータは、RSA暗号の解読ツールとしての期待により有名になったが、計算量の問題にはあまり興味がない。質的にはチューリングマシン(古典コンピュータ)を越えないからである。私の関心はもっと原理的なところ。たとえば、QUBITという情報単位など神秘的ではないかと思う。

7と8は、進化論系。生物の話は具体性が魅力、読んでいて飽きない。とくに7は、今回購入した中ではいちばん期待が高い。著者は人類の裸化がダーウィニズムで説明できないことを、「不適応者は生きのびる」と表現している。我田引水になるが、裸化のみならず、言葉の獲得も、人類に不適応を招いたのではないか、というのが私の説。本書を参考に自説を補強したい。書き出しも小説気取りで、なかなか上手い。8はトンデモから科学へ、の見本かな。

9は、有名。じっさいソクラテスが何をしたのか知りたい気分もあって。というところか。


話はどうなっているか

いまの課題は、言語とレトリックを繋ぐことにある。まず、言語の方の話を整理する。

人間とは何ぞや。という問いがある。これに対し、人間はコンピュータだというのは過小評価だが、人間は機械ではないというのは過大評価であろう。つまり、人間も物理法則に従う。では、どんな機械なのか。アスペクト知覚をする機械だと仮定してみる。それでは動物と区別がつかなくなる。動物もアスペクト知覚くらいできるであろう。そこで言語が登場する。人間は行為の記述を記号の形で持つ動物である。これはおそらくは、倫理的な人間像と言ってよい。

そこで、言語観が問題になる。いま主流の言語観に従えば、人間がコンピュータになってしまう。そうでない証拠はたくさんあるのだが、有力な対抗馬がないために主流の言語観は崩れない。ここへ、アスペクト研究の記号部門としてのレトリックをぶつけたいのだ。言語VSレトリックと言えばレイコフ以降の認知言語学である。主流の言語観をゆるがせた功績は大きいが、これは言語の多義性のうちのひとつを特権化してみせたにすぎない。いわく身体性が根源である。

レトリック的な認知過程が言語において本質的である。そういう主張をする人は少なからず存在する。だが、レトリック的ということの意味が、おそらくはその人と私とで異なっている。そうなると立証過程もかわってくるはずだ。どんな順序で何を説明すれば、本になるだろうか。私の考えでは、修辞学の出自を問い直すことが必要なのだが、いまのところ、その話をどこでどう展開すればよいか、どこに入れ込めばよいか、構成が見えていない。その構成を考えること。これが、言語とレトリックを繋ぐ、ということの意味である。

言いたいこと、やりたいことは単純なのだ。あるいは、やっとここまでシェイプアップできたと言ってもいい。人間を過小評価から救いたい。オカルトの手を借りずに。


購書メモ・読書メモ 6

1 ドナルド・D.ホフマン『視覚の文法 脳が物を見る法則』
2 ジョージ・ガモフ『1,2,3…無限大』
3 ニコラス・ハンフリー『喪失と獲得 進化心理学から見た心と体』
4 月本洋『ロボットのこころ 想像力をもつロボットをめざして』
5 井上真琴『図書館に訊け!』

を購入した。今回は発送時期が揃ったものをまとめて買ったので、テーマはばらばらだ。

1は、認知科学系の本である。この間読んだ『〈意識〉とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』が面白かったのだが、著者の下条信輔さんの専門が視覚の認知過程ということで、飛び火してみた。タイトルが「視覚の文法」ということで、チョムスキーの生成文法理論と親和性の高い議論になっているようだ。まえがきと第一章をパラパラと読んだところでは、はったりが強いというか、なんともアメリカンな文体が面白い。読みやすい。そうまで芝居がからなくてもついていくのだが。

2は、一般向けの科学コラムとして有名な本なので。見る限りフツーの印象だが、これは二番煎じのコピー本が多数発生したからかもしれない。内容はなかなか高度。哲学者のカントが惑星のできかたについて論じていたのは知らなかった。

3は、何だったか。養老孟司推薦とか帯に書いてある。「心身問題の解き方」が面白そう。原著は名文らしいのだが、訳文が硬い。読みにくくて閉口する。

4は、戸田山和久/〔ほか〕編『心の科学と哲学 コネクショニズムの可能性』からの飛び火。著者は仮想的身体運動というアイデアで言語の神秘を解こうとしている。文章は上手くない。また、アイデアも不振な気がするのだが、主張が明瞭な点が好印象。フェアな感じ。著者の主張には、まったく賛同しないけど、批判的に読むというより、現場の雰囲気を知りたくて買ったという趣が強い。

5は、図書館を使いたいので。司書っていいなあと傍から憧れたりするけど、実際どうなのかとか。……無理に理由をつけたが、たまたま発送時期が同じだったから買っただけだな、これは。


なぜ言語なのか

人間とは何か。行為するものである。行為を行為たらしめているものは何か。言語による記述である。これは人文現象にとって本質的な側面ではないか。

自然現象とは事情が異なる。人間が書こうが書くまいが、あるいは見ようが見るまいが、落下するりんごの運動はあらかじめ決まっていると考えてよい。ところが、行為の意味は記述で変化するのだ。

たとえば、言葉がなければ人間は存在しないのだと言ってみる。誤解して欲しくないが、言葉を喋れない、聞き取れない者、あるいは言葉の読み書きができない者は人間ではない、というような差別的な主張をしたい訳ではない。物理的な対象としての人間ではなく、まず何として人間が記述されているかということ。ウィトゲンシュタインに倣って言えば、人間という語の用法が問題なのである。

さて、しかし、動物も行為するように見える。犬や猫を見ても、腹が減ったんだなとか、怒っているなというようなことは分かる。動物行動学という学問もある。これはどういうことなのだろうか。


購書メモ・読書メモ 5

1 ヒューバートL・ドレイファス『コンピュータには何ができないか 哲学的人工知能批判』
2 下条信輔『〈意識〉とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』
3 山本貴光 吉川浩満『問題がモンダイなのだ』

を購入した。

1は、いつか買わなければならなかった。このブログの過去の記事を読んでいただければ分かるのだが、私も「コンピュータには何ができないか」を考えている。というより、この本のタイトルに触発されて考え初めたところがある。昔から外題学問の徒であったが原典はまだ読んでなかった。ひどいなあ。

2は、何だったかな。それ系の本には違いないのだが、錯視系の話が載ってるのが味噌か。もしかすると、すでに持っていて、ダブり本になったかもしれない。

3は『心脳問題――「脳の世紀」を行き抜く』という本があって、面白そうだなと思ったのだが、絶版だった。著者は『哲学の劇場』というサイトを主催するコンビらしい。この『問題がモンダイなのだ』は、そのコンビが書いた別の本である。私も、もしかしたら「問題」がモンダイなのかもしれないと思っていたので、勢いで買ってしまった。どんな本かなとパラパラめくっているうちにいつの間にか読み終えていたが、これは本が薄いせいであろう。この内容なら、もっと薄くできたのではないかと思う。予告編の方が本編より面白い映画、みたいな印象だった。もったいない。


言語の起原

もうひとつ。自分のサイトから、こっちに持ってきておく。

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http://ww4.tiki.ne.jp/~j344/essay/frame.html

言語の起原


言語をいきなり作ろうとすると、いろいろと変な話になる。
ことばがないときにも生活はあったはずだ。
たとえば狼に育てられた少女みたいに。
その人がたとえば類人猿に育てられた猿人であってもいい。

集団で狩をするときに「ホイ」なりなんなり掛け声をかける。
これで獲物に襲い掛かるタイミングを合わせていたと仮定する。
人間以外の動物にもこんなような言語なら(それを言語と呼ぶならば)ある。
ある原始人が狩以外のときに「ホイ」という声をあげる。
偶然や勘違いでもいいし、すでに意図のようなものがあったと考えてもいい。
とにかく、仲間の原始人には不意打ちである。
獲物が来たかと、または近所で狩をやっているのかと思い、
慌てるなり、騒ぎ出すなりするだろう。
「ホイ」と声をあげた原始人は、それを見て、
こいつらは俺の声で大騒ぎになったぞと思う。
もちろんことばがないので、そんなに明確に思えるものかどうかは知らない。
けれど、次は、彼はたぶんこの事態を意識して「ホイ」の声を出す。
また騒ぎ出す仲間たち。なんだか楽しくなってくる。
「ホイ」「ホイ」「ホイ」「ホホイのホイ」
気付くと彼は仲間にとり囲まれている。
獲物の姿がなかったので、仲間たちは不満なのだ。
彼はボコボコにされてしまう――。なあんだ、これは狼少年の話ではないか。

そこから先はいろんな物語があるだろうけど、
とりあえず、こんなのが言語のはじまりだったのではないかと思う。

駄洒落の構造

そもそもこの話がどこから始まったのか。2001年に自分のサイトで書いたのが、以下の文章であった。今では立場が変化している部分もあるけれど、参考までこのブログに掲載しておきたい。


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http://ww4.tiki.ne.jp/~j344/nosiika/frame.html


駄洒落の構造



前口上
 このページの主題は駄洒落について突き詰めて考えることである。
 特に参考にした文献はない。その道では常識的な話題や、あるいは見当違いの考察なども、知らず得意に展開してしまうかもしれない。先にお詫びする。




駄洒落の不確定性
 駄洒落と一と口に言っても、その語の指示する範囲はまちまちである。仮に、駄洒落か否かを判定する単位をフレーズと呼ぶことにしよう。ある人にとっては駄洒落であるフレーズが、別のある人には駄洒落でない場合がある。「私がここで駄洒落と呼ぶもの」を定義しなければならない。
 例から入ろう。大学の「総合科学部」のことを友人達のあいだでは「総科(そうか)」と呼ぶ慣わしがあった。学部生の頃、次のような会話がしばしばあった。
「次(の授業)どこ?」
「総科」
「そうか」
 この最後の「そうか」が駄洒落かどうかは人格に関わる大問題であった。

 これは心霊写真の扱われ方に似ている。写真に幽霊が写っていても、誰も気付かなければ、それが心霊写真と呼ばれることはない。また、幽霊が写っているのでなくても、木の影が人の顔に見えたりすると心霊写真扱いされることがある。
 友人は「『総科』を『そうか』で受けるなんてのは駄洒落である」と前提して、「私が駄洒落のつもりでそれを言った」という結論へと持ち込もうとしたのだが、結論の真偽はともかくこの推論は間違いである。




笑いを括弧に入れてみる
 私は駄洒落を「笑いを目的とした表現」として捉えない。駄洒落にはもっと大きな可能性がある。また「笑いを目的とした表現」の世界では常套的に形式を裏切るため、その枠組みでは定義しづらいという理由もある。
 しかし笑いという視点なしに、駄洒落を語ることは可能か、そもそも「つまらない洒落」というのが「駄洒落」の語義ではないのか。本来を言えば駄洒落とは、他人の口にした、つまらない洒落を「それはね、駄洒落だよ」と評価する場合や、自分が口にした洒落を「今のは駄洒落だったな」と自己採点する場合などに使われていた言葉のはずである。
 いま私が駄洒落と呼んでいる、それの輪郭をハッキリさせるには「地口」と呼んだほうがいいのかもしれない。が、どのみち、同じ問題は残る。地口とは何か? 同じことなら、私は駄洒落を通したい。駄洒落は明らかに、洒落の中の特定技法をも指す。
 その事情については、おそらく、こういうことではないだろうか。すなわち、技法として低級と見られているものが洒落の中に存在していた。そして、「その技法の洒落はつまらない」が、いつのまにか転倒して、「駄洒落とはその技法の洒落である」という誤解が生まれ、広まったのである。元が誤解であるにせよ、言葉には市民権があればいい。私がその本質を考えたいのも、この誤解の方の駄洒落だ。以降、駄洒落といえば一律に、それを指すものとする。なお本稿では洒落とは何かを論じない。




駄洒落の定義
 「駄洒落の不確定性」に登場した友人の、件の推論は認めないが、そこで友人が前提したことは評価してよい。「『総科』を『そうか』で受けるなんてのは駄洒落である」に私は賛成だ。つまりフレーズの形式から駄洒落の定義をしたいのである。
 漫画家の鳥山明が有名にした有名な駄洒落に「蒲団が吹っ飛んだ」がある。うろ覚えだが、これは同じく漫画家の桂正和に教わったものであったらしい。問うべきは何のためにこれが駄洒落として成立しているかである。それは「蒲団」と「吹っ飛ん」との音の類似ではないだろうか。
 幽霊によって駄洒落を定義するのではないから、いまは駄洒落を考案するという思考の過程は無視しよう。一般化のため、「蒲団」を変形すると「吹っ飛ん」になる、という関係に注目したい。オリジナルとコピーという見方をするわけである。コピーといっても、元と完全に同じではダメで、ある変形が成されなければならない。その際、音の変形といった形式的な変形だけを許し、内容に基づいた変形は認めないものとする。そこで定義。

 駄洒落とは、オリジナルとコピーとの組み合わせである。

 さて、「当たり前田のクラッカー」は駄洒落だろうか。次の駄洒落の分類で、詳しく考えてみたい。




駄洒落の分類
 結論から言えば「当たり前田のクラッカー」は駄洒落である。しかし「蒲団が吹っ飛んだ」式の駄洒落とは様子が違う。私の解釈では、オリジナルがフレーズから消滅しているのである。この点で、駄洒落を分類してみよう。再び定義。

 オリジナルがフレーズ内にある駄洒落を自己完結型の駄洒落と呼び、オリジナルがフレーズ内には存在しない駄洒落をパロディと呼ぶ。

 フレーズ内にコピーが存在しない駄洒落はありえないので、これでよい。
 上の定義から、「アルミ缶の上にある、みかん」というフレーズを考えると、「アルミ缶」がオリジナルであり、「ある、みかん」がそのコピーと解釈でき、これは自己完結型の駄洒落になる。
 「その手は桑名の焼きはまぐり」というフレーズでは「その手は食わない」という常套句の「食わな」がオリジナルであり、「桑名」がそのコピーと解釈でき、パロディに分類される。問題は「焼きはまぐり」であるが、立場上、これは、フレーズを聞く側の人が「桑名」を地名であると特定するために添えられた言葉である、と解釈する。
 「その手は桑名の焼きはまぐり」についてもう少し書く。パロディとして成立しさえすればよいのなら「その手は桑名い」で構わない。面白いかどうかは、駄洒落に関して問題ではないのである。「笑いを括弧に入れてみる」で私が駄洒落を「技法」と呼んだのは、つまりはそういうことだったのだ。「その手は桑名の焼きはまぐり」はパロディであるが、同時に暗喩である。つまり、「その手」=「焼きはまぐり(のようなもの)」という意味が派生する。
 コピーが内容に基づいて変形されていない、という点で駄洒落は普通と別の自由度がある、意味にとらわれない飛躍である。これを駄洒落の強みと考えることもできるだろう。

 パロディではフレーズの受け手にオリジナルがわからないと駄洒落として機能しない。そのため、様々な別の技法と組み合わせられることが多い。暗号でいうところの鍵が問題になる。たとえば「アリが10匹で、ありがとう」は、自己完結型か、パロディか。微妙だが、私の考えによれば、これはパロディである。




駄洒落としての言葉遊び
 みなさん既にご存知の伸しイカの詩歌は、自己完結型の駄洒落としては最小(余分がない)である。これは当初から言いたいことのひとつであった。しかし、それだけではない。ある種の言葉遊びは駄洒落として考えると少し違った見え方をするのではないか、ということについても述べておきたい。敢えて、駄洒落を音の類似に限らなかった理由はここにある。
 例えば回文は、前半をオリジナル、後半をコピーと見ることで、自己完結型の駄洒落と考えることができる。偶数音からなる回文は、「伸しイカの詩歌」と同じく、自己完結型の駄洒落として最小である。
 また、アナグラムという言葉遊びは、文字の順番を並べかえて別の意味を持つ言葉を作るものであるが、本来はオリジナルを隠すのでパロディである。
 いわゆるいろは歌の一般化であるパングラムという言葉遊びは、五十音(実際は四十六文字)のアナグラムだから、もちろんパロディ。
  
 …という具合である。変形の仕方がルールになるので新しい言葉遊びが可能かもしれない。ちなみに暗号は言葉遊びかどうかはともかく、定義から見て明らかにパロディである。ということは駄洒落である。

 だから何だと言われたら、元も子も有馬温泉。



2001.11.14 Joker

言語と人間

人間が過小評価されているということと、言語観が問題だということと、これまでの記事では上手く繋がっていなかった気がする。おそらく言語観が変われば人間観が変わるのだが、さて言語は人間にとって何なのだろうか。

私の妹は障害があって言葉を喋ることができない。おそらく言葉を理解することもできていない。そのせいもあるのだろうか、私は主知主義的な人間観にずっと違和感があった。主知主義という言葉は一昨日知った。知情意(真善美の夫々に対応した能力)の内、知を第一に考える立場のようで、メルロ=ポンティなどは大いにこの主知主義を批判したらしい。メルロ=ポンティはゲシュタルトへの関心も深かったし、両義性とか言っている。どうも私の言いたいこととはニュアンスが違う気もするが、これから色々関係してきそうな人である。

言語分析と言ったとき、どうしてみんな論理学の真似事みたいなことしかやらないのだろうか。文法や品詞の分類も退屈で仕方がない。言語ってそんなものなのか。数学やプログラミング言語のような人工言語は、きっと自然言語とは大きく異なっている。自然言語による人工言語のエミュレートはできても、逆に、人工言語による自然言語のエミュレートはできないのではないかと思う。

コンピュータをモデルにして人間の認知過程を解明できると言えば、それは人間の過小評価である。逆に自然言語を神秘化するのは人間の過大評価であろう。だから、人間は機械だが、コンピュータではない。というのが私の主張である。いまのところ人類は、情報処理機械といえば、コンピュータくらいしか知らないので(私も知らないのだが)、これは仕方がないといえば仕方がない。

主知主義の人たちにとっては、言語は人間に欠かせないアイテムであろう。私が言語の問題を考えるのは、①主知主義を批判するため、②記号成立(⇔文字のゲシュタルト崩壊)の段階を無視すれば、アナログな視覚・聴覚より、デジタルな言語は扱いやすい(客観的に調べやすい)ため、という二点の理由による。

実はいま言葉がみつからないので、仮に主知主義という風に呼んでいるが、これはとりあえずの仮想敵に過ぎない。もっと敵の輪郭をクリアにして行きたい。あるいは、考察の過程で敵など消えてしまっても、明瞭に語るべきことを語れるようになりたい。

購書メモ・読書メモ 4

1 山梨正明/編『講座認知言語学のフロンティア 3 概念化と意味の世界 認知意味論のアプローチ』
2 黒田亘『行為と規範』

を購入した。しかし、この、読む前に書くレビューみたいな形式、なかなかの発見かもしれない。ものぐさな私としては、何事かその本に対して発言するためにはまず読んでからでなければ、というプレッシャーを感じずに済むのでやっていて面白いし、読み終えたあとで、購入時に抱いていた期待を読み返せるのもいい。他の人が読んでどうなのかはよく分からないが。この二冊は3/31に届いた分とほとんど同時に発注したのだが、これが今日時間差で届いたのであった。

1は、認知言語学の大勢を知るために。表紙にルビンの壺が描いてあって本文でゲシュタルトとか言ってるし、主体化などというキーワードもあるし、これはかなり私の構想に抵触するのではないかと一瞬身構えた。しかしながら、つまみ読みした限りでは、期待も不安も叶いそうにない。旧言語学の客観性がぼやけたような印象で、具体例は多いものの膝を打つような議論には出会えないのではないか。もっと先にやるべきことがあるでしょうと言いたくなるのだが、もちろん著者らの目的は私と異なっているのであって、これは単なる難癖に過ぎない。とりあえず歴史認識(現代史の知識)を深めるつもりで読んでみたい。

2は、私の買った黒田本第二号である。ここでは取り上げていないが、かつて『経験と言語』という箱入り本を買ったのが第一号だった。著者はウィトゲンシュタイン研究などで知られる哲学者。第一号の方は、なんとなくたじろいで自分の中に敷居ができてしまい、まだ読み始めることすらできていないが、こちらの『行為と規範』数ページ進めた段階ですでに、名著の予感が漂ってきた。これは編者によれば著者黒田亘の没後再編集されたもので、前半が放送大学テキストだったもの、後半がそれを補う三本の黒田論文という構成になっている(論文はテーマ的に近いものを編者が集めたもので、もともとこの形での出版を行う意図は黒田にはなかった)。冒頭、放送大学のテキストだけあって、まことに分かりやすい。読み進める快感がある。
私が行為論に興味を持ったのは「しりとり」の分析をしていたときに「規則に従う」とはどういうことか、という哲学的な問いが芽生えたことがきっかけだった。このとき、web上で文化人類学の浜本満さんが紹介していたアンスコムの行為論を読んで、ガチョーンと目から鱗が落ちて、私はあれこれ考え始めたような気がする。もっと遡れば、柄谷行人の『探求Ⅰ』が最初の一撃だった。柄谷『探求Ⅰ』もウィトゲンシュタイン本。あらためてウィトゲンシュタインは偉大である。